主に出会うQ&A

教会に全く行ったことのない方、主に出会ったばかりの方から受けた様々な質問に対して、ピーター先生と「白いハト」に出会ったばかりの美津子さんが答えられた質疑応答のコーナーです。

洗礼のよろこび開く

わけが分からないのに、主を信じますと祈り、洗礼を受けてから、うれしくて仕方がありません。どうしてこんなにうれしいのですか。泣きたくないのに、どうして涙が出るのですか。
ピーター:

イエス・キリストを信じますと口に出すのは、知性の働きではないのです。聖霊が働いて、人間の中の霊が主を受け入れ、告白したのです。霊は知性より深いところにあり、キリストを信じると告白するだけで、瞬間に生まれ変わります。

主を告白したり、洗礼を受けたりすると、名状し難いよろこびが、わき上ってくることがありますね。聖霊があなたの霊に、魂に注がれたからです。涙もよろこびの涙でしょう。うれしい時は、うれしいとよろこんで下さい。これは、魂が当然帰ってくるところに帰ってきたよろこびなのです。

美津子:

主を信じますという祈りは、たとえわけが分かっていなくても、あなたがイエス・キリストのものになったという霊の事実なのです。キリストのものとなる、キリストのもとに帰るために、それまで生きてきたようなものなのですから、このよろこびは他のどんなよろこびより大きくて当然なのです。あなたの魂はうれしい。そして、それを待っていて下さった主のよろこびは、もっと大きいことでしょう。きっと主のよろこびがあなたにあふれているのでしょうね。

洗礼を受けても、本当に何もしなくていいのですか。
ピーター:

主に感謝するだけでいいのです。人は自分の行いに対して報酬をもらうという考えを、幼児の頃から持っています。いい子であったら親から愛されるのだと思っていました。同じ考えを神様にも当てはめます。何かいいことをしたら神様からの愛をもらえると考えているのでしょう。

キリストの愛は、そんな人間の次元の愛と異なり、人の善行、悪行に関係なく、限りなく愛して下さるというのです。人間の常識を越えていますね。だからキリストの恵みと言うのです。天から一方的に来るいのちなのです。私たちはその恵みをただ感謝をもって受けるだけ。

そして、愛の中に育てられた子供のように、私たちも神の愛の中で成長すると、自ずとなすべきことをするようになるでしょう。聖書が読みたくなり、また祈るのが楽しくなるはずです。礼拝に出るのも義務ではなくよろこびとして出席したくなる。神の恵みの中に生き出すと、すべてが自然になるのです。

美津子:

何もしないでいいことを素直によろこぶというのも、人には難しいことですね。うれしいなら何かしなければならない、うれしくないなら何かしなければならない、と考えてしまいがちですね。でも、「洗礼を受けたら何をしなければならないか」というような、それまでの自分の考え方を捨ててみて下さい。あなたは、自分の子供が親に何かをしてくれるから愛しますか。何もしてくれなくても生き生きとして幸せな子供を見ると、それだけでうれしいですよね。

キリストに出会って、多くの人がうれしいと言われるのに、私は特に何も感じません。おかしいのでしょうか。
ピーター:

キリストとの出会いというのは、まず霊の次元のことで、感情ではないのです。人の霊が生まれ変わったのですね。人は霊だけでない知性や感情を持っていますから、霊が生まれ変わった時、その上にある感情まで触発されて、うれしいと叫ぶ人もいるし、知性が触発されて、いろいろなこと、特に聖書のことが急激に理解できるようになる人もいます。でも、その触発のされ方というのは人によっていろいろ違うのです。神様は一人一人違って造られたのですから、違って当然でしょう。

何も感じないという人がいても、当然です。感情や知性の面では何の変化も感じなくても、深い深いところにある霊は、魂は、主を告白し、洗礼を受けたことにより、はっきりと変化しているのですから、そして聖書がそう言うのですから、安心して主を賛美していて下さい。

美津子:

やはり感じるとうれしいですよね。しかし、全く感じないとしても、主が与えて下さるものはどの人にも等しく与えられています。あなたはそれを信じますか。

子羊の群れでその場で受けた洗礼は本物ではないと他教会に行く友人から言われました。どうなのですか。
ピーター:

前準備もなくとっさに受けた洗礼が本当の洗礼でないのなら、使徒行伝の中の洗礼はみな無効になりますね。ペンテコステの日には、なんと三千人も洗礼を受けています(使徒行伝2:41)。

今のように教会の建物もなく、もちろん聖書研究会もなかったでしょう。聖霊の激しい流れの中で、人々は続々と洗礼を受けました。異邦人コルネリオの家でペテロが話している最中に聖霊が人々に下るのを見て、ペテロは、「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」(同10:47)と言って、その場で洗礼をしています。

他の箇所でも、洗礼に関して準備期間がいるとか、聖書や教会のことについて勉強しなければならないということは書かれていませんね。

他教会の人々が、私たちはお勉強会をしてしっかり信仰のABCが分かった者だけを洗礼しますと、自分たちの伝統に従うなら、それはそれでいいのです。しかし、聖書にもないことをどうして主張するのですか。

子羊の群れがその場で洗礼を授けることを批判しますが、聖霊は人間のやり方とは違います。主の啓示を受けてすぐに洗礼を受けるのが、よほど聖書的だと思います。

美津子:

思いつきで受けようが、人から強引に勧められて分からないままに受けようが、その洗礼は主の洗礼です。教会への入会式ではなく、ここから主と私とのさらに新しい関わりが始まるということだと思っています。

スタートはどのようであれ、主を信じる、イエス・キリストをわが主とするという決断から、すべてが始まります。いえ、すでに始まっていたことが明らかにされていくのですね。

人からそんな洗礼はおかしいと言われて、傷ついたり、揺れたりする必要はないと思います。主がこれからどのようにして下さるのかを、むしろ楽しみたいですね。

無神論者に神の存在を話してもバカにされます。どうすればいいでしょうか。
ピーター:

深い意味での無神論者という人はいないでしょうね。本人がそう言っているだけの話です。なぜなら人は誰でも、この宇宙に何か自分以上の存在があるとうすうす気がついているからです。それが何か真正面から追求する勇気もないし、興味もない。いや、恐れていると言った方がいいかもしれません。でも、何かあるという感覚は誰にもあるのです。

かつて無神論を謳歌した共産主義の国のことを思い出して下さい。神を拒否すると、必ずその代用品がほしくなるのです。無神論者は、レーニンをミイラにしてでも拝みたいのです。まことの神に出会わない者は、必ず代用品(偶像)を持っています。自分の力でも、家族でもいい、何か自分が一番頼れるものが、その人にとっての偶像です。

神様の愛は議論で伝わるものではありません。神を拒否する人は、実は神の愛を必死に求めているのです。ホンモノの愛に出会ってないから、ガンコに拒否する。そういう時は、議論ではなく祈ってあげるのです。キリストの愛がその人の魂を包むように祈ってあげるのです。

美津子:

神を否定する人、神を信じる者をバカにする人に出会うと、悲しくなりますね。でも、そこまで拒否しなくても、主に出会う前の私は、似たような者だったと自分を振り返って思います。本当は求めているのに、そんな自分が分かっていないだけ、分かろうとしていないだけ。

私は、人はキリストに出会って、初めて生きる意味を知るように造られていると信じています。あなたが祈り始めたら、きっとどんな人も自分の魂の本当の願いに気づくようになると思います。神を信じる人はもちろんのこと、神を拒否する人も神の御手の中。信じる者を批判したり、バカにする人のためにも、主が十字架にかかって下さった、ということを忘れないでいたいですね。

主は、私を長く待っていて下さった、ずっと辛抱強く待っていて下さったと思うのです。出会った今でも、さらに近づくことを待ち望んで下さっているのでしょうね。その主の忍耐とその願いを知る者としては、どの人も必ず主のもとに帰る時が来ることを信じて、祈り続けたいですね。

日常生活の疑問開く

クリスチャンになったらタバコ、酒、ハデなかっこうはいけないのですか。
ピーター:

そんな外側のことは神様のいのちと何の関係もないのに、なぜ行動にこだわるのでしょうかね。タバコが良くなければ、酒が良くなければ、イエス様は取って下さいますよ。無理をしてやめることは何もありません。

信仰を持つということは、道徳とは関係ないのです。いのちをいただくことであり、外側の規制を受けることではありません。クリスチャンになるというのは、そういうカタチからの脱却でもあるのに、また堅苦しいカタチの世界に入れられるのならゴメンこうむりたいですね。信仰は律法道徳ではない。キリストにある自由を捨てないで下さい。

美津子:

信仰というのは、人の目で測ることのできるものではありませんね。しかし、人はどこかで人の信仰を測り、自分の信仰を目に見えるカタチで納得したいというところがあるのだと思います。

無遅刻、無欠席の人が立派な人、タバコ、酒をやらない人は真面目な人、日曜礼拝をさぼる人は信仰の弱い人、ハデなかっこうをする人はクリスチャンらしくない人…どこかでそういう感覚を持ってしまいがちです。

そんなこの世の中の感覚を教会にまで持ち込んで、人の信仰を暗に、あるいは大っぴらに批判してきたということがあったのではないかと思います。あるいは、そのように自分で自分に課するクリスチャンが多かったからではないかと思います。

でも信仰とは、人に見てもらうものでも、見せるものでもありませんよね。どんなに信仰の長い人でも、他の人の信仰を測ることはできない。服装や行動を見れば分かるなんていうのは、自分は正しいから、神に代わって判断してやろうというものです。

クリスチャンになることは大変だと思い込んでいる人がいますが、本当は最高のよろこびです。そのよろこびをよろこびたいです。

一つの家庭に違う宗教を信じる者がいてもいいですか。十字架と仏像を並べてもいいのですか。
ピーター:

イエス・キリストは、宗教ではないのです。いのちのいのち、愛の愛。この方を一人でも信じる者がいる家庭は、残りの者が信じていなくても、そこに主の光と愛が差し伸べられています。

主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒行伝16:31)

あなたがキリストを主として信じるなら、残りの家族の者がそうでなくても、主の光はあなたの家族をきよめています。だから、主の絶対の愛を信じ、この家に主の愛と光が満ちることを祈っているなら、家族の者たちが主に心を開くチャンスは多いでしょう。

家族の者が仏壇を大事にしている場合、あなたがクリスチャンになったからといって、それを排除することはできませんね。そんなカタチにこだわらなくてもいいのです。主の愛を信じる者は、もはや異邦の神々のたたりや呪いから解放されています。

美津子:

いいか悪いかではなく、主は何をよろこばれるだろうというところから見たらよいと思います。仏像を取り払うほうをよろこばれると感じるのも、また、いや主は仏像と十字架を並べるのを哀れみの中において下さると見るのも、あなたの信仰です。主は愛なる方。自分の思い込みで、主の愛を小さなものにしないで下さいね。しかし、どうするかの判断はあなたがして下さい。主は必ずその判断を生かして下さることでしょう。

クリスチャンがお金儲けに熱心になったり、株や宝くじ、ギャンブルをしてもいいのですか。
ピーター:

洗礼を受けたというのは、一番深い意味でこの世と決別したということです。この世と私の間に主の十字架が立っている。この世は私に死に、私もこの世に死んだのです。これが信仰の原点であり、霊の事実なのです。主中心の生活をすると、かつてのようにこの世に振り回されるのではなく、この世が従属するようになります。

この世のシンボルはお金です。今まではお金のために生活していたのが、主を知ってからは、お金中心でなくなり、お金も主の中で清められ、主のために使われるようになるのです。

ビジネスをする者は、主にあって大いにお金儲けをすればいいのです。でも、お金儲けそのものが目的ではないでしょう。主に生かされてよろこんでビジネスをするなら、結果として充分なお金が入ってくるということです。

「与えよ、さらば与えられん」と主は言われました。主の愛を信じ、ビジネスをするのです。主を信じて「与える」(投資する)なら、必ず主が与え返して下さいます。一を出す者は、三、四と何倍にも増えて返ってくるのを見るでしょう。ついでながら、これが献金の一つの副産物です。献金の何倍も返ってくるから不思議です。クリスチャンは清く、貧しく、美しく…というのはおかしなカタチであって、聖書はどこにも教えていません。ただ、物質にとらわれるなと言っていますね。

お金儲けの危険性は、お金儲けそのものにとらわれ、主の姿が見えなくなることです。だから、主を見ながらビジネスをするのです。主に感謝しながら仕事をするのです。あなたは充分に報われ、充分に潤うでしょう。

株の売買もビジネスの一つ。ギャンブル性がありますが、人生はある意味でギャンブルなのです。ただ、私たち信じる者にとって、人生の決断は自分のカンや経験による判断ではなく、主に賭けて決断するところが大事なのです。

主に賭けるというのは「賭け事」です。ずいぶんひどい言葉を使いますが、私たちは毎日様々なことで決断をしなければなりません。そんな時、「主よ、私はあなたを信じてこの道を取ります」と祈り、行動を起こす。これが、主にある賭け事(ホーリー・ギャンブル?)です。

私は個人的に株をしたことがありません。分からないからです。その方面に才のある人はたくさんいるでしょう。私がその一人だったら、ここにも主のよろこびが溢れるように祈って売買をしますね。

宝くじとかパチンコというのは遊びでしょう。のめり込むのは危険ですが、遊びなら楽しめばいいではありませんか。のめり込むというのは、主を主とせずに、何でも自分の力でやろうとして溺れる状態を言うのです。

クリスチャンになったというのは、その人が本来あるべき最も自然な姿に帰ることであり、道徳戒律に縛られることではありません。「これはしていいことだろうか、悪いことだろうか」と迷うことがあったら、祈ってみて下さい。同じことでも、ある時はOK、ある時はNOと示されるでしょう。聖霊が境界線を引いて、ここから入ってはならない、危険だと示されます。聖霊に忠実であれば安全です。

美津子:

ギャンブルであれ、株であれ、何であれ、信仰によらないものは罪だ、と聖書は言います。礼拝に出るのも、信仰によらないなら罪と言えることでしょう。たとえカッコウだけでも神を礼拝する方がパチンコよりましじゃないか、とあなたは思われるでしょうが、すべては信仰によるのです。

人の信仰は、人の目に判断できるものではないと思います。その人のしていることで裁くことだけはしたくないと思っています。

自分が自分の人生の主人ではないということを知っているなら、神が主人であることを本当に知っているなら、何をしてもしなくてもよいとまで思います。主を主とするなら、主がすべてを整えて下さると信じています。

ただ、人はそんなに強くないから、すぐ夢中になって主を見失う弱さを持っているから、あえて近づかないという決断をされるなら、それも信仰です。いつも見るべきものを見、それを第一とするかどうかだと思います。

クリスチャンになって困ったことがありますか。
ピーター:

クリスチャンになったがゆえに、家族や友達との間に何か摩擦が生じたということは、私には全くありませんでした。私は肺病で療養所の生活をしていましたから、主に出会い、病気がいやされ、考えてもみなかった新しい次元の世界が開かれて、ただうれしくて感謝でなりませんでした。

クリスチャンになって、今までの生活を変える(たとえば、酒、タバコをやめる)のが苦痛だったというような話を時に聞きますが、私にとってキリストは、私の生活行動を変えるために来られた方ではなく、ただ愛といのちをもたらして下さった方ですから、そして今もそうですから、自分で何かを変えねばならないという苦痛はありません。変えなければならないものなら、主が変えて下さるでしょう。

美津子:

私は、主に出会って初めて生きているよろこびを心から味わうことができました。しかし、家族の猛反対にあって、それまで経験したことのない悲しみを知りました。今まで見えていなかったものが、自分の内側のことまで含めて明らかにされるという厳しい現実に直面しました。

ピーター先生は「全くない」と答えられていますが、また多くのクリスチャンもそう言われますが、ないはずがないと私は思っています。死から生に変わるほどの変化を受けるのです。しかし、よろこびの方が大きくて、困ったことはすでに主が十字架に負うて下さったこと、この信仰が深められていくために忘れ去ってしまうのでしょう。もう思い出さないほどに主が変えて下さるのでしょうね。

信仰とはとどまらないもの、深まり続けるものだと思います。クリスチャンになったからこそ受ける痛みは、人をいよいよ主に向かわしめる力となることでしょう。私はもしかしたら、生まれ変わったばかりの人が受けるかもしれない痛みについて共感することのできる者とされているのかもしれませんね。

偶像礼拝とはどういうことですか。神社のお祭り、七五三、初詣、お正月のしめ縄などはよくないのですか。
ピーター:

日本には独特の文化風習があります。その多くが宗教的な色合いを持っています。クリスチャンになったからといって、私たちが周りの文化風習から切り離されるわけではありませんし、切り離す必要もありません。夏祭りも、お正月も、日本の風習でしょう。あなたがキリストを神として信じるなら、文化風習はそれなりに楽しめばいいのです。

偶像礼拝というのは、神ならぬものを神として拝む行為であり、夏祭りの神社で、そこのカミサマを神として拝むわけではないでしょう。あなたが神社にカミの力を感じるなら、遠去かった方がいいでしょうね。信仰によらないことは罪だからです。

文化風習が偶像となるかどうかというのは、実はあなたの信仰にかかっているのです。あなたがお宮さんや神社、仏壇に「悪霊を見る」なら、悪霊が働いていると思うなら、それらと接触するのは「偶像礼拝」と言えるかもしれません。そして、聖書も確かにそれらの背後には諸霊の働きがあることを示しています(コロサイ2:20)。しかし、またあなたの信仰が、「偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がない」(Ⅰコリント8:4)というところに立つなら、神社仏閣はただの建物にすぎません。

私個人としては、仏像を見ても芸術品として鑑賞できますが、拝む対象ではもちろんない。キリストを知ってから日本の文化風習もけっこう楽しんでいます。しかし、時にはこれ以上深入りしてはならないという聖霊の警告を受けることがあります。主に従っていけば、御霊が教えてくれます。

また自然の美しさを見ると、人は何となく厳かな気分になり、古い日本人なら日の出に手を合わせたくなることもあるでしょうね。日の出だけでない、大木を見ても手を合わせますよ。それは人間が本来、神を拝したいという深い願いを持っているからです。神様がすべてを造られ、すべての被造物の中には神の光が漂っています。そして、人はその神の光を神と錯覚して拝むのですが、それを偶像礼拝として切るか、それともまことの神に目覚める一手段として見るか。それによって、人の魂がキリストに来るかどうかを決定するかもしれません。

私なら、自然を拝む者を偶像礼拝として切らない。何か拝みたいという願いのある人なら、必ずキリストの愛も流れるはずです。その人にキリストの愛を祈ります。

美津子:

お正月に限らず、七五三とか十日戎のお祭りとか、特に神社の神を信仰しているわけではないのに、風習として気づかずに、あるいはあえて意識しないでしていることがたくさんありますね。日本では儒教や仏教、神道の影響なしに生きてはいけません。そんな一つ一つを偶像礼拝だと言って批判していたら、日本には住んでおれなくなることでしょう。

むしろ批判したくなる人は、そういう日本文化の中でどのようにしたらキリストの愛が伝えられるか考えた方がよいと思うのです。

神がどの人にも与えて下さっている永遠を思う思い、神のもとに帰りたいという願いが、この文化の中でどのように具体化され、キリストを信じる信仰へと至るようにされるかということなのです。偶像礼拝だと拒むところからは、何も始まらないと思います。

自分の信仰によって、それが偶像礼拝だと判断することはいいのです、その人の信仰ですから。しかし、まだその文化の中で、それしかないと思い込んで、キリスト以外のものをよろこんでいる人に向かって、偶像だという表現は、まるで文化を否定してしまう狭さを見せつけるようなものです。

確かにキリストの十字架の道は狭く厳しいものですが、信仰のある人が分かることであって、まだ知らない人に自分の判断を押しつけるようなことはしたくないと思います。

気功や心霊治療、占い、おみくじはよくないのですか。
ピーター:

中国から伝わった「気」というのは、聖書の言葉で言うなら「霊」です。霊というのはどの人の中にも存在しているのですが、まことの神キリストに出会うまで満たされず、その表面にある知性や感情がどんなに恵まれても何か物足りないものを感じ、探求し続けるものです。活ける神、キリストとの出会いを待っているのです。

ところが、その霊を(聖書のある箇所では魂と同義語として使われます)聖霊によらず自分の力で開発しようとする者がいます。修行を重ねて心眼が開くというのは、この類いです。日本人が好む様々な「道」(剣道や茶道など)は、心眼の開いた者によって初めてその極致が見えてくる世界です。気功もその一つです。

道を極めるために修行を重ねるのは、それなりに意味があり、すばらしいものだと思います。しかし、霊(気)そのものを開眼させるための鍛錬というのは、ずいぶん危険なところに入ります。なぜなら、この領域は聖霊ではなく諸霊が働いている世界だからです。諸霊はある程度の善をもたらし、またいやしもしてくれます。気功や心霊治療をする人たちは、人格的にもすばらしい人たちが多いのですが、同時に冷たいものや、時に暗いものを感じませんか。その人たちの影響下に入ってしまうと危険になります。

あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。(コロサイ2:20-23 新改訳)

主を信じるなら、もうこの世の諸霊とは何の関係もないのです。苦行や修行を積んだ者は、それぞれの教えを持っており、あれがいけないこれがいけないと戒律を持ち出しますが、これらはむなしいもの。一時的な肉の満足感をもたらすものにすぎません。

さらに危険なのは、気功や特に心霊治療を受けていると、諸霊の影響下に入るため、だんだんと心が重たくなり、また健康にもかえって害がもたらされる場合があります。最初はいいのですが、あとが恐いですね。

しかし、私は気功はみな悪霊だと決めつけているのではありません。様々な民間治療を頭ごなしに否定したくありません。受けたければ受ければいい。ただ、危険が伴うということを知っておいて下さい。危険信号は、治療する者がキリストとその救いやいやしに対して否定的なことを発言する時です。危険信号を見たら、逃げるがよい。

占いやおみくじについても、同じようなことが言えます。

はじめは無邪気な気持ちで占いに首を突っ込みますが、自分のことが言い当てられると、これはホントだと信じ、段々と深入りし始める。占いにもよりますが、中には当たる確率が高いものもあります。人は皆、明日のことが分からず不安感を持っていますから、当たる占いを知っていると、自分の人生が他の人より有利に展開すると思うのでしょう。しかし、これは錯覚なのです。

檻の中で寝そべっている虎が、無邪気そうに目をつぶっているからといって手を差し延べ、虎の鼻をなでていると、ガブリと食いつかれますよ。

占いの霊なら、現象世界の表面のことに関してかなりの確率で当てます。しかし占いの危険性は、当たる当たらないの確率より、自分の自由意志を放棄して占い師の呪縛に陥ることです。

占いに凝るに従って、自分の人生を自分で決定するのではなく、人の指図に従いロボット化する。占いの霊は、餌を与えて人を釣り、最後に食べてしまう。

占いに凝り出すと、奇妙な興奮を覚え、これがすべてだという気になる。とりつかれの現象が起きているのです。本人はけっこうよろこび、はしゃいでいますが、そのうち重たい暗い陰に入る。聖霊の清らかな、人を解放する自由感とはおよそ遠いもの。そんなまがいものに頼るより、本当に人を生かす神キリストに従うなら、この方の導きは、安全かつ最善な道です。

美津子:

いやされたいからキリストを信じたのに、あるいはいやしを信じて求めたのに、いやされない、苦しい。だからキリストだけを信じ続けられなくて、他にも何か良いものがあるかもしれないと、気功や心霊治療、占いなどに目を向けてしまうということが起こるかもしれませんね。

イエスさまを信じられない自分の弱さを見たくないから、他のものもやってみるのかもしれませんが、他のものは、やってもやってもむなしくさせると思います。一時的には効果の上がるものもあるでしょう。でも、ホントにこれでいいのかしらという不安や疑いは、必ず生じてくるでしょう。魂が本当にはよろこんでいないことを知っているからです。

いやされたら信じられるのに、祈りがきかれたら信じるのに、という信仰の姿勢では、いつまでも満たされないと思います。他にもっと良いところはないかと探すようなものです。

他のもっと良いものを求めようとする前に、自分はイエスさまを知っているのかしら、イエスさまを信じているかしら、と立ち止まって下さい。他の良いものを求めようとさえする私のために、命を投げ出して下さった方がおられるということを思い出して下さいね。

どうしても赦せない人がいます。クリスチャン失格ですか。
ピーター:

人を赦せないというのは、苦しいことです。二十四時間中、その人の影を背負って生きているようなものですから。その人に対する怒りと不満で私のエネルギーの大半を費やしてしまいます。否定的な感情は心のエネルギーを激しく消耗するものですから、赦せない感情を抱き続けているというのは大変なエネルギーの損失です。やがて体まで蝕まれてくるでしょう。

しかし、どんなに努力しても赦せないものは赦せないということもあるでしょうね。無理をして愛そうとしなくてもいいのです。主は、私たちの限界をご存じで、決して無理を強いられない。どうしても赦せないという人がいるなら、その赦せないという気持ちをそのまま主に申し上げて下さい。それだけでも重荷が違うはずです。

また赦せない者はクリスチャン失格などということも決してありません。もともと失格していた人生で主に出会ったのですから、この愛に出会ったらもう落ちようがないのです。

美津子:

十字架によって赦されていることを知っているクリスチャンは、主の愛の大きさを体験していますから、それだけ自分以外の人に対して優しくなれると信じています。

しかし、またクリスチャンは普通の人間ですから、赦せないということもあると思います。赦されたことを知っているから、人をも赦さなければならないと思うことと、赦せないという正直な思いの中で、クリスチャンは二重に苦しいと思うのです。でも、そんな赦せない私のために命を捨てて下さった方がおられるということはすごいことですね。

ある方からこんなことを教わりました。「たとえば、数字の『3』を何としてでも頭から消そうとしてみよ、と言われると、忘れよう忘れようとするほどに、数字の『3』が頭にこびりついてしまう。しかし、もし『5』を思い浮かべていると『3』はどこかへ行ってしまう」

赦せない、赦せない、赦さなければならない、いや赦せそうもない、そこに心を向けるのではなく、目を主に向けてみて下さい。主のよろこびを賛美しているうちに、気づいたら「3」は消えていることでしょう。赦せなくても、主を見る人はクリスチャンであると信じています。

神様がいるのになぜ事故が防げないのですか。
ピーター:

しばしば、事前に事故を察知して祈れと言われているように感じることはありますね。聖霊の促しなのでしょう。御霊に忠実に歩んでいるなら、さらにそういうことが増えてくるでしょう。うれしいですね。

ところが、いつも事前に知らされるかといえば、必ずしもそうではないのです。神は全く人間に知らせない場合もあります。そして、事故が起きる。悲劇が起きる。私たちは「どうして?」と呟きます。

なぜだか説明できたらと思いますが、私には分からないのです。分かることは、それでも主は愛であるということです。悲しみもよろこびも、この方の中に一つとされているという確信みたいなものがある。

悲劇の真の意味は、かの世界に行った時、初めて理解できるのでしょう。

美津子:

「どうして事故が起こったのか、どうして神様がおられるのなら事故を防いで下さらなかったのか、お母さんには分からないの。どうしてあなたが悲しい目に遭うのかも本当は分からないの。あなたが悪いからという場合ばかりじゃないものね。神様は教えて下さらないことが多いもの。でも、だったらあなたは神様はいないと思う? 神様キライになる?」 こんな会話を子供としたことがあります。子供は「悲しくなるし、神様に怒るけれど、キライになれない」と言いました。私は「キライになってもいいのよ、神様はあなたがいつも大好きだから」と答えました。何一つ答えになっていませんね。なぜこの世の中に矛盾があり、それがそのままにされているのか。私は正直に怒ることもあります。しかし、神はそんな私を愛して下さっていると信じることができます。きっとその神の愛の中に、答えがあるのでしょう。

この質問をされるあなたは、どうして世の中のことを、神と自分との関わりの中だけで見てしまうのかと、私にさらに問われるかもしれませんね。私には、主と私との二人きりの関わりが、私と世の中、宇宙すべてとの関わりの初めであり、終わりであると感じるのです。

自殺は地獄行きですか。
ピーター:

命は神様から与えられたものであり、人の意志でこれを捨てるものではありません。神様が人の命をどんなに大事にされているか、自ら命を断つ魂をどんなに悲しまれているか。

罪とは、自分の人生は自分の力でやってゆく、自分が自分の人生の神だと思い上がることです。自己中心の態度を言います。自殺はその究極ですね。自らを神とする自分中心の生き方は、自我の牢獄から一歩も自由になれません。まさに地獄なのです。死後の世界に行かなくても、そのような生き方をして、地獄を舐めている人のなんと多いことか。

伝統的キリスト教会の解釈によれば、自殺した人の霊魂は絶対に赦されないから地獄に落ちると言います。しかし私は、自殺=地獄行きだとは思いません。自殺は確かに創造の神をはなはだしく悲しませることになりますが、私たちの地球上での生活そのものが、主をはなはだしく悲しませているのです。自殺だけが例外だとはどうしても思えないのです。

医者がタバコは死を早めると言いますが、それでもタバコをやめないなら自殺行為ですよ。だからといって、主がタバコを吸う者を地獄に追いやるとでも思いますか。これは極端な例ですが、たとえ主をはなはだしく悲しませる罪を犯しても、それでもなお十字架の主のゆるしがある、神のあわれみがあると私は信じます。

美津子:

個人的ないやしの祈りをしていて、ほとんど必ず感じることがあります。この人はかつて死にたいと思い、本気で死のうとされたなということです。そこまでの傷を感じてしまいますが、その傷はむしろ神の傷ではないかとまで思っています。

神が与えて下さった生命を、自分のものでもないというのに自分のものであるかのように捨ててしまうのは、罪であると思います。死のうとするだけでも、神を傷つけるのですから。

神の愛はたとえ自殺さえゆるすほどの愛だとしても、自分の思い通りにする生き方、死に方ではなく、神によろこばれる生き方、死に方をしたいものだと思います。

よろこんで自殺したい子供もいないと思いますが、子供に自殺されてうれしい親もいませんね。子供には生き生きとして生きてほしいですよね。そう願っておられる父なる神の願いに生きていきたいですね。

離婚、不倫、堕胎についてどう思いますか。
ピーター:

結婚は神のよろこびであり、離婚は神の悲しみです。不倫、堕胎も同じこと。愛のつながりが切れる、愛が裏切られる、愛が断たれるというのは、神の深い悲しみです。しかし、そのような痛み悲しみを持つがゆえに、主が私たちのために十字架にかかられたのです。ある特定の罪だけがゆるされないということはないのです。

離婚を認める、認めないというのは、教会の杓子定規なルールで決められることではないでしょう。福音書の中でイエスは離婚に反対を表明しています(マタイ5:32)。パウロの書簡ではやむを得ないと認めているところがあります(Ⅰコリント7:15-16)。

でも、イエスが反対し、パウロが賛成しているから、私たち教会はどちらをとるか決めますということではないのです。恵みで始まった信仰を、また冷たい律法に戻さないで下さい。神の教会は道徳学校ではないのです。

私が離婚相談を受けたら、夫婦各々と祈ります。主のあわれみと愛で二人が劇的に和解したというのを何度も見てきました。「子供のために和解しなさい」、「ここはあなたが我慢しなさい」とか、また逆に「こんなひどいパートナーとは別れなさい」とも言いません。

あなたは驚くかもしれませんが、不倫で悩んでいる人に対して「今すぐやめなさい」とも言いません。堕胎の相談を受けても同じこと。行為そのものの決定は、本人がすることなのです。

しかし、離婚を考えるまでに痛んでいる人、不倫の恋をしてまで愛を求めている人、堕胎をしなければならない母親の痛みを、そのまま主に持ってゆくことを勧め、祈ります。

そして、本人が主にゆだねる決心をするなら、必ず主が最善をして下さるのを知っています。たとえそれが離婚であれ不倫であれ堕胎であれ、どうして主のあわれみからもれることがあり得ましょうか。

美津子:

離婚も不倫も堕胎も主はよろこばれないものと分かっていて、なおかつ「どう思いますか」と聞いてこられる人の心を思いたいと思います。

イエスさまの言葉が愛であって人を生かすのは、イエスさまが人の問題が何であれ、そのすべての側面を分かっておられて、その人に、その状況に、最も必要なことを口にされるからだと思うのです。

人には人のすべての側面は見えませんから、どうしても一面だけ見て、ものを言いがちになってしまいます。「離婚ですって? 絶対にノーよ」、「不倫ですって? とんでもない」、「堕胎ですって? 命を奪うことですよ」 そんなこと分かっていても、なおあえてそうせざるを得ない人の悲しみというのがある。イエスさまは裁くために来られたのではなく、そんな悲しみのために来て下さったという思いがするのです。

ある時、ご主人との間がどうしようもなくなって家を出ようと決心したものの、何か心にひっかかるという人からお電話をもらったことがあります。家を出たい、もう出る以外に道はない。しかし、私はクリスチャン。出てしまって本当にいいのかしら。主人を愛するべきなのに‥‥。

この人の痛みと苦しみは、クリスチャンであるためにさらに深くなる一方でした。「家に残って我慢することが、主人を愛することでしょうか」 もし一面しか見なかったら、「そうです。もう一度やってごらんなさい」という返答になるでしょう。まだ耐えられるくらいなら、あんな電話はかけてこられないというのは、私には分かっていました。すべての面が見えたわけではありませんが、私は答えました。「家に残るのも愛なら、離れるのも愛ですよ」

離れるのも愛だと言われて、この人は最後に引っかかっていたものから放たれて、家を出てしまわれました。

私は離婚や家出を勧めているのではありません。しかし、私は○○してはならないと、自分を自分で縛って主を見失うより、正直になってみることが、むしろ主に立ち帰る近道であると信じています。ただのわがままで決めるのではなく、信仰によって決断するなら、主が放っておかれるわけがないと信じているのです。

そしてこの方の夫婦関係は、家出によって初めて話し合いのできるものへと変えられました。単なる家出ではなく、離婚まで覚悟してのものでしたが、主がこの人の決断を通して介入して下さったのだと思っています。

カタチを守ることが第一になって耐え続けていたら、新しい道は開かれなかったことでしょう。家に留まることも出ることも、どちらが正しいということではないからです。正しいかそうでないかの判断だけは、主に任せたいと思います。主を信じる信仰によって一歩踏み出すということです。

堕胎も、よろこんでする人などいないことでしょう。ある時、ある女性を祈っていて不思議な幻を見ました。  坊主頭のかわいい少年がこの人に寄ってきてニコニコと笑い、その笑顔が「ぼく大丈夫だよ」と、まるで愛してやまないお母さんに語っているように見えるのです。この少年は 「ネ、ぼくは幸せなんだよね」と安心しきって、後ろにいた白い衣の人に目配せをしました。いつもこの白い衣の方に抱きしめられているらしいのが感じられました。

この人には男の子はいない。子供さんを亡くしたということも聞いたことがない。どういうことなのかしらと私は思いましたが、主がすべてをして下さるのですから、私は何も口にせず、ただ主がこの人にとって最善をして下さるようにと祈りました。

この人はワンワンと大声を上げて、泣き叫んでおられましたから、深いいやしなのだろうと察しがつきました。祈りが終わってから、この方は突然言い出されました。「私、一度子供を堕したことがあるの。その時のことなど、とっくの昔のことですっかり忘れて生活していたのに、急に思い出したの。どうして堕したのかということも思い出したの…」 さすがに私もびっくりしました。男の子だったそうです。

堕胎した子供が、霊の世界で成長するのかどうか、そんなことは私には分かりませんし、どうでもいいことです。しかし一つ分かったことは、主のいやしはそんな過去のことにまで至るということです。本人が気づいてもいないことすらいやされる。本人は分かっていなくても痛み傷ついていること、主により近く戻るための妨げになるものは取り除いて下さる。

この方は、「私はクリスチャンになって、あれは罪だと思って、本当は思い出さないようにしていたの」と言われました。罪であれ何であれ、イエスさまはむしろその罪のためにご自分の命を捨てて下さったのですね。罪のゆるし、いやしには、何が正しいのかという人間の判断はいりませんね。

幸福とは何ですか。
ピーター:

私にとって幸福とは、キリストの愛です。愛そのもの。

あまりにも深いところから救われ、あまりにも暗い罪を赦され、光の世界へ、光の世界へと導かれている自分を見る時、これが主の愛でなくてなんだろうと、私は驚嘆し感動するのです。

私の一生は、愛の探求だったと思います。十代の終わりにキリストに出会い、その時、初めてこの世界に愛のあることを知りました。それから数十年、私はさらにその愛の実感を求めて地球を彷徨してきたと思います。

ひとたびその愛に出会ったがゆえに、さらにその実体を知りたい、さらにその全貌を知りたいと、私は、時に激しく、時にはほとんど絶望の中で、なお愛を知りたいともがいてきました。

今、私は愛の全貌を知ったとは思えません。まだまだその片鱗なのでしょう。でも、いつ死んでもいいなという実感はあります。悔やむものは何一つなし。愛なる主が、その命を惜しげもなく注いで下さったからです。私はついに出会うべき方に出会ったという実感があるのです。私は幸福です。

美津子:

私にとって幸福とは、一言で言うと、幸福であっても幸福でなくてもよいと言える自分になっていることなのです。

主に出会うまで、ちょっと幸せな気分になると、いつまでも続いてほしい、いや、いつまでこれが続くのかしらと 不安だから、いよいよ確信がほしくて幸福を求め続けていました。もちろん今も私は幸福でありたいのですが、もうそんなこと言わなくてもいい、求めなくてもいい、与えられているのだから、というところに思いが来るのです。いつこの幸福を失うかという不安はすっかりなくなりました。

私は、これが私の救いであったと思っています。幸福とは求めるものと思ってきた私ですが、与えられているものなのですね。信仰によって主に与えられているもの。別な言葉で言うと、愛されているのを感じることではないかなと思います。

祈り開く

祈っても祈ってもきかれない時、どうしたらいいですか。
ピーター:

祈りとは、愛の神様とお話することですから、この神が聞いていないはずがない。私たちが一生懸命祈れば、神が祈りをきかれるのではありません。愛の関係に努力はいりません。祈りが聞かれないというのは、私の思っているように答えが返ってこないという意味でしょう。

たとえば、病気のいやしを祈っているのに、いつまで経ってもいやされない。そういうことはよくありますね。そんな時、祈る側の信仰が足りないからだとか、罪があるからだとか、いろいろ物言いをつけるお節介焼きもいますが、根本はそんなことではありません。

愛の神に自分の事情をお話したのなら、あとはこの神様に任せればよい。この神様が悪いことをされるはずがない。ここに立つのです。

いやされないのなら、それも何か意味があるのでしょう。私の詮索することではない。主がなされることだから、結果が何であれ私はよろこんで感謝して受けていこう。そこに立つのです。

美津子:

祈っても祈っても自分の願い通りに祈りがきかれないと思える時、あなたはどのように反応されるでしょうか。こんな神はウソだと言って怒り、信仰を捨てますか。自分の祈り方が悪いのだといよいよ一生懸命に祈りますか。あきらめてしまいますか。その時の最も正直な思いの中に、主が働かれると思います。主を主として祈っているのか、祈る自分が主となってしまっているのかが見えてくることでしょう。

目の前にすぐに祈りの答えが出されるかどうかが大切なのではなくて、どこまで主を信頼するかということなのだと思います。気づかないうちに、「祈りに応えて下さったら信じてあげますよ」となっていないでしょうか。それは自分中心、自分に役立つなら信じるという信仰です。

神中心の信仰は、ただ神の御心が成ることをよろこぶ信仰です。祈っても祈りがきかれないように見える時こそ、あなたの信仰が見える時ですね。私は祈り続けます。この方を信頼するから、祈り続けます。また、信頼するから委ねます。

イエス様の声はどうしたら聞けますか。
ピーター:

祈っている時など、「イエス様の声がはっきり聞こえないかな。そうすると自分の信仰もはっきりするのに…」 そう願うのは無理もないことですが、実はイエス様の声というのは、信仰の耳さえ開けば誰でも聞こえるのです。

イエス様は羊飼い。私たちはその羊。「羊はその声を知っているので、彼について行く」(ヨハネ10:4)とあります。あなたも知っているのです。

赤ちゃんがお母さんの声を知るようになったのは、毎日毎日そばでその声を聞いているからでしょう。同じように、私たち霊の赤ちゃんも、毎日毎日イエス様のそばで声を聞いておれば、自ずと「あ、これは主の声だ」と分かるようになります。そして毎日、主の声を聞く一番いい方法は、聖書を読むことです。

主はみことばをもって私たちに語りかけて下さるのです。超自然的な声というのも、たまにはあります。でも、例外的なことです。超自然的な声ばかり期待していると、オカルト的なものが聖霊を偽って話しかけてくることがあります。それが主の声かどうか、聖書の言葉を学んでいないと分からなくなります。

毎朝、少しでいいですから聖書を読み、いいなと思う所をノートに書き写してごらんなさい。そして主がこの聖句を通して私に語りかけておられるなら、何を言おうとされているのか瞑想してみて下さい。心に来るままの言葉をまたノートするのです。

たとえば今朝、マタイ福音書からの一節を書いてみます。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイ11:28 新共同訳)

そして、あなたも主の語りかけを信じて、思いをさらに書いてごらんなさい。

愛する者よ、
お前はどうしてそんなに疲れているのか。
仕事と家族のことで
こころがいっぱいになっているではないか。
あまり疲れて
わたしの声さえ聞こえなくなっている…
さあ、わたしのところに来て
お前の重荷を、みな降ろしなさい。
お前の上司とのいさかいも、
わたしに任せなさい。
お前が弁解することではない。
お前は妻の不平に腹を立てているが、
ゆるしてあげなさい。
お前自身がどれほど
わたしのゆるしを必要としているか。
わたしがお前の疲れをみな取ってあげよう。
さあ、わたしのいのちを受けなさい、
わたしの愛を受けなさい。

なんだか自分に都合のいいことだけを書いているようですが、一ヶ月間実験してみて下さい。決してあなたの独白ではなく、主との対話であることが分かるでしょう。これは主の声を聞く一つの方法です。

こういう訓練は大事です。私たちははじめから箸を使いこなすことができたのではありませんね。毎日毎日、箸を使ううちに体の一部として覚えてしまったのです。イエス様の声を聞くのも同じように、毎日毎日、聞いているうちに、魂には直感的に自然に聞こえてくるようになるのです。

美津子:

イエスさまはあなたを愛し、あなたの幸せを願っておられる方です。あなたが生かされ、生き生きと輝いてほしいと願っておられるのです。絶えず愛する者を見守り、愛する者がよろこぶのをよろこびとされる。これをあなたは信じますか。

イエスさまはあなたに語りかけ続けておられます。あなたは信じますか。信じるなら、主の御声が聞こえていることが分かるでしょう。でも信じるなら、聞こえても聞こえなくてもいいではありませんか。

まず、私から話しかける。そして、主の御声に耳を傾けてみる。そんな主と二人きりの静かな時間に、見えてくるものが、聞こえてくるものがあると思います。

主を信じて委ねるということは、努力はいらないということですか。
ピーター:

上手な泳ぎ方をする人と、下手な人を見比べてごらんなさい。下手な人は、手足をバタバタさせてへたばってしまうのに、上手な人は、まるで水に浮いているようにすいすいと泳いでいるでしょう。

主を信じ、この方がおられるのならこの方に任せていけばよいと分かる人は、水泳の上手な人。下手な人というのは、余計なところに力が入りすぎているのです。自分の力で勉強しよう、自分の力で仕事をしようと頑張るから、疲労困憊してへたばるのです。

人間の力なんてすぐ限界が来るのです。だから自分一人でもがかないで、主に委ねていくのです。祈りながら生活するのです。手足は前と同じように動かす。勉強も仕事も前と同じようにする。でも、もはや自分の努力が一番大事なことではない。

祈りながら主に委ねて仕事をする人は、余計なところに力が入りません。だから以前のような疲れがない。楽しみながらできる。結果は前より幾倍もよくなる。障害と思っていた水が、今や聖霊の水であることに気がつくでしょう。聖霊に浮くかのように泳いでいくのです。

美津子:

私のすることは、もはや私の努力ではありません。人の目からは、努力し、頑張っているように見えても、私は自分がしたいことを、しなければならないことをよろこんでしているのです。主に出会うと、自分のよろこびとしてする以上のことを無理して、また力んでする必要がないことが分かります。することはします。

しかし、すべてのすべてを主が整えて下さることを信じることができるから、委ねることができるのです。何もしないで放り出すことは、委ねることではありません。

すべてが主との共同作業です。そして、最終責任者は主。主を信頼するから、自分のすべきことはしながら、かつそのまますべてを主に委ねられるということだと思います。

社会運動や反体制運動はクリスチャンのするべきことではないのですか。あるがままによろこぶとはどんなことも辛抱しなければならないということですか。
ピーター:

あるがままによろこぶというのは、キリストの恵みなしにはできないことです。主がすべてを支配されていることを信じ、主の愛の中ですべてがよいように整えられてゆくことを祈るのが、クリスチャンの信仰の基本なのです。主が愛であると信じるから、私は主にあって最善と信じるところを決断し、行動をとるのです。

あるがままにというのは、何もしないということではありません。主の愛の中で自然に生き、あるがままのいのちの流れをよろこび、賛美する。そしてこの自然ないのちの流れの中で、あなたがこれが危険だと判断するなら、避けなければなりません。時には反対を叫ばなければなりませんね。

ロマ書の13章に、パウロは国家権力への従順ということを説いています。国家権力というのは神がその権威を許しているのだから、私たちクリスチャンはその権威に従わなければならないというのです。ところが、黙示録13章を見ると、国家権力がモンスター化し、サタンが国家権力を使って、クリスチャンを迫害すると予言されています。使徒ペテロは、時の権力がキリストの名による宣教活動を禁止した時、「人間に従うより、神に従うべきである」(使徒行伝5:29)と言って公然と反抗しました。

どこまで従順で、どこから反対するのか。その境界線は教会が指し示すべきだとは思いません。教会が率先して社会問題の行動を促すのは考えものです。牧師や教派のお偉方が社会問題の黒白を決めることがありますが、それによって多くの間違いを犯してきました。問題に対してどのような判断をし、どのような行動をとるかは、各個人の信仰の決断に任すべきです。

どこに境界線を引くか、一つの目安として、次のことを考慮して下さい。

私たちに信仰の自由を与えてくれる限り、私たちも国家権威に従う義務がある。しかし、国家権力が侵入してはならない領域があります。それが信仰の領域です。信仰の自由を奪おうとしたり、圧迫を加えてくるなら、私たちはもはや国家権力に従わない。断固、反対すべきです。

このことに関しても、クリスチャンには重大な仕事があります。すなわち、秩序と平和のある社会国家が与えられるよう、私たちは上に立つ者たちのために祈らなければならないのです(Ⅰテモテ2:1-2)。権威をもって上に立っている者というのは、目に見えない諸霊の影響を受けやすく、ともすると悪に走りがちです。国家権威の背後には諸霊の力が働いているというのが、聖書の国家観です。

私たちクリスチャンはこれらの諸霊が権力者たちをそそのかして、暴走しないように、彼らの歯止めのために祈るのです。極言するなら、どんな国家を持つかというのは、そこに住んでいるクリスチャンの祈りに大きくかかってくるとまで言えると思います。

政府の政策反対というデモンストレーションもしなければならない時が来るかもしれない。しかし、まず祈るのです。祈りの中で、どれだけ多くのことが動くか。国家政治の鍵を握っているのは、国会ではなく、実はクリスチャン、あなたの信仰と祈りであるという見方もしてみて下さい。

病気で死が近い人に何をしてあげたらいいのですか。
ピーター:

祈るのです。イエス様がこの場におられたらどうなさるか考えてみて下さい。命の瀬戸際の人が横たわっていて、そこにイエスさまが来られたら、あなたはどうしますか。「主よ、この方をあわれんで下さい。いやしてあげて下さい」と願いませんか。それとも、あなたは病人に迷惑をかけたらいけないから黙っていようとしますか。
私ならイエス様に何とかして下さいと嘆願します。

病人のために祈るとは、実にその嘆願なのです。主がどのようになさるのか分からないけれど、主がこの方のそばに来られたら、もう絶対大丈夫だと思いませんか。

私はそのように単純に祈るのです。結果がどうなるのかは知らなくてよい。奇跡が起きていやされたり、また天国に行かれることもある。しかし、イエス様の愛を祈られた魂は、天国にそのまま行かれる結果になっても、愛を実感して行きます。また祈ったあなたも、主の愛がどんなに深いか実感されるでしょう。

だから、あなたが祈るのです。どうして祈っていいのか分からないと思うかもしれませんが、言葉はどうでもいいですから、イエス様がそばにおられると想定して、祈ってあげて下さい。遠くから祈ってもいいし、病室に行き、本人に手を置いて祈るとなおいいでしょうね。キリストの愛だけを信じて祈るのです。

相手がクリスチャンであってもなくても同じです。クリスチャンでないなら、「私はキリストの愛を信じる者です。イエス様の名によるいやしを祈ってもいいですか」、また時には「イエス様を信じませんか」と問うてから、相手の認可を得て祈るといいでしょうね。

こういう時には、他のいやしを信じるクリスチャンと一緒に行くといいかもしれません。でも一番大事なのは、あなたの信仰と祈りです。

美津子:

祈りがムダになることなどあり得ないと信じています。

つい最近、ある方からステキなお話を聞きました。おじいちゃんが亡くなるという日、おじいちゃんが病気でそんなに悪いとも知らなかった孫のところに、夢の中で現れたそうです。

「お前が祈ってくれたから、わしは天国に行ける」 キリスト大反対のおじいちゃんだったそうです。主を信じる人の祈りは、その祈りが人に対してどのように働いているのか、目には見えないことが多いものですが、必ず主が働いて下さっているのですね。主の御名で祈るのですから。私は、町で通りすがりでも、ふと病気の人を見かけると祈ります。もちろん声はかけません。祈るのは私でも、祈ったあとは主がすべてをして下さるのですから。この方の力を信じています。

祈りの最後に「アーメン」と言うのはどういうことですか。また「ハレルヤ」とはどういう意味ですか。
ピーター:

「アーメン」というのは、ヘブル語で「そのごとくなれ」という非常に強い肯定を意味します。「そうです、そうなのです」という意味にもなります。「ハレルヤ」というのもヘブル語で、「主をほめる」、「主を賛美する」の意味です。

アメリカの黒人教会に行くと、牧師の説教中、会衆の中から「アーメン」、「ハレルヤ」の連発で、それはにぎやかなものです。文化の違いなのでしょうね。私は静かに礼拝したいので、あまり「アーメン」、「ハレルヤ」のかけ声があるのを好みません。しかし、これは好みの問題ですね。

信仰開く

天地創造を聖書のままに信じられますか。
ピーター:

聖書は文字通り解釈すべきと言う者もいるし、いや霊的に解釈すべきと言う者もいるし、解釈の仕方はいろいろあっていいのですが、つねに一点が大事なのです。その一点というのは、キリストが見えているかどうかということです。創世記の記事を文字通り読む者も、比喩的な話として読む者も、各々がキリストを見ようとして読むなら、いずれも正しいのです。

キリストを見るというこの大事な一点がおろそかにすると、キリスト教会の中でも、文字通り派は進化論を悪魔のように攻撃するし、科学情報を取り入れた者たちは、文字通り読む者たちを無知蒙昧なガンコ者であるかのように言います。どちらも的が外れています。

私はキリスト・イエスのいのちを知ったがゆえに、この宇宙が神の言葉でできたということを信じています。天地創造の話は文字通り真実だと信じます。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。(ヘブル11:3)

創世記に書かれていることをそのまま信ぜよとエライ先生や正統主義の教会が言うから信じるとか、いや科学的には進化論が正しいという議論はむなしい。そういうものは外側からの証明であって、私の内に与えられる聖霊の証ではありません。

私はキリストに出会い、聖霊の証によって聖書の記事が文字通り真実であるということが分かってきたのです。他の言葉で言うなら、「信仰によって」分かったのです。信仰は、外側の証明を必要としません。外側の証明も補助的な意味で役に立つでしょうが、肝心なことは、信仰によって分かる真理です。

近年の物理学の発展は、ビッグバン理論をほぼ証明しました。ビッグバン理論は、聖書の天地創造と非常に似ています。はじめがあったとするからです。宇宙は無限の彼方から無限の彼方へと流れていくものではなく、はっきりと「はじめ」があり、また「終わり」があると言います。小さな小さな粒子のようなものが爆発して全宇宙が創造され、今もその爆発による創造が続いているというのは、私たちの想像を絶する話ですが、全宇宙は最後にエントロピーをもって終焉するというシナリオは恐ろしいですね。

「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示22:13)と主は言われました。

信仰と科学というのは、本質においては矛盾しないのです。科学する者は、自然現象の背後に定理があると仮定しますが、それらの定理を造られた人格神がおられることを認識して科学するか、そうでないかでは、大いなる違いが出てきます。後者は人間中心の傲慢な科学文明を謳歌し、やがてそれが自殺行為だということに気がついた時は遅すぎる。地上の文明は今、その危険に面しています。

物質の中に神の光を認識する科学者なら、宇宙の真実を見るでしょう。霊と物質は、神の中で調和しているのですから。真に謙虚な信仰者、真に謙虚な科学者は、共に真理の探究に手を取り合っていくでしょう。

逆に、信仰者が聖書の権威を盾に、科学的リサーチを無視したり馬鹿にしたりするのは醜い。天地創造を文字通り信じるからといって、近代の一切の地質学を無視し、地球が四、五千年前にできたということを「科学的に証明」しようとするグループがありますね。非科学的です。教会の教理を主張するのは、ヨーロッパ中世の教会中心主義の傲慢さの名残であり、真理を探求する信仰者の姿ではありません。信仰者も科学者も、神を見るということにおいて一つなのです。

美津子:

私はキリストに出会ってから、科学で証明されなければならない真理にほとんど関心がなくなってしまいました。科学で証明されるかどうかということも、どうでもよくなったのです。

科学で証明されるから信じられるというなら、科学の証明によって信じられなくなる時も来るでしょう。しかし、主が私に与えて下さった確信は、科学の証明を必要としない真理、キリストこそが人間を本当に幸福にして下さるということ、キリストこそ誰もが求める愛であるというものでした。

聖書の天地創造は、科学から見ると信じるに価しないものかもしれませんが、主を信じる信仰を与えられて、私には疑うという思いがわいてこないことの一つなのです。

正しいか正しくないかというところから見るのではなく、主が働いておられる、主の御手によらないものは何一つないというように、すべてにキリストを見るかどうかということなのです。天地創造を議論するより、あなたも主に造られたと信じるかどうかということの方が大切なのだと思います。

イエス・キリストだけが神なのですか。なぜですか。
ピーター:

神と称せられるものはたくさんありますね。日本では八百万の神と言いますから、どこの国よりも神様の数だけは多いかもしれません。しかし、まことの神は唯一の方であり、この方は全宇宙を造られ、また私たちをあがなって下さった方です。創造神であり、救い主でもあります。
どの民族も古くから、何か自分たち以上の存在があるとは知っていました。人間の一番深い志向は、造り主を拝みたいという衝動です。その衝動の現れが様々な宗教における「神」または「道」と称せられるものになりました。

人間が創造神を拝みたいと切望するのは、神から造られた存在だからです。聖書の言葉によると、人間の中には「神の似姿」(image of God)があるからだと言います。造られたイメージが、造り主を求めるのです。

そのまま素直に造り主を認めれば問題ないのですが、人間の中にはもう一つの本能があります。自分中心の本能です。すべてを自分中心に見る。これを罪と言うのですが、この自己中心性のため、人間は素直に神を神とみなせなくなりました。造り主にお会いしたい、あがめたいという欲求は強烈なのに、自分のフィルター、自分の考えを通してしか認めようとしません。

だから、すべての被造物を通して創造神を認識できるのに、人間の見方が曇っているため、神の姿が屈折して、時には全く違うものに見えるのです。

世界に様々な宗教や道があり、どれも真理の断片を見せてくれますが、神の全貌は現れていない。ところが、イエス・キリストは宗教ではありません。まことの光、まことの道として現れました。この方に神の全貌が顕現しているのです。御子を見た者は、父なる神を見た者である。

イエス・キリストは、すべての宗教や哲学や芸術が目指して得られなかった、まことの神のイメージなのです。

そしてまた、なぜイエス・キリストだけが神なのかということですが、それは十字架にのぼられたのは誰かということを考えれば、答えが見えてきます。

お釈迦様もすばらしい道を示された方。しかし十字架の救い主ではありません。十字架とはイエス・キリストが、私たち肉を着ている者の生の痛みを、私たちに代わってことごとく吸収されたところです。いや、人間だけでない、被造物全体の痛み、苦しみをことごとく吸収された全宇宙のブラックホールなのです。

イエス様が私の痛みを痛み、私の病を病んで下さり、私の人生の暗黒をことごとく吸収された。その打たれた傷により、今や私たちにいやしが、解放が、光が、自由が、いのちが注がれるようになったのです。

吸収されたというのは、他の言葉で言えば、一体化されたということですが、神ご自身が私の罪と暗黒と一体化されたとは、なんということでしょうか。キリスト・イエスだけです。

美津子:

なぜイエス・キリストだけが神であるかということは、あなたの内にある御霊が教えて下さる時が来るでしょう。それよりも、私に問わせて下さい。なぜかというより、あなたはイエス・キリストだけがあなたの神であると信じますか。

父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊の三位一体とは何ですか。
ピーター:

三位一体という用語は聖書にはないのですが、神の何たるかを言い得て妙なるものがあると思います。父も御子も聖霊も各々の神格を持っておられ、その意味では別々なのですが、三神格とも完全にハーモニーしておられるので、一つであると言えます。

誰も父を見た者はありません。あまりにも大きくて私たち人間には理解を越えているのです。だから父は、御子イエスを私たちに遣わされました。御子の中に父のすべてが現れている。御子を見る者は父を見る。そして、その御子イエス・キリストを私たちに啓示して下さるのが聖霊です。聖霊なくして、誰も御子を見ることはできません。

聖霊は御子イエスを指し、御子は父なる神を指し、父は御霊を私たちに注がれました。こうして、三位一体の神と人間のサイクルが完成するのです。

美津子:

父なる神、イエス・キリストなる神、御霊なる神の三つは違っていて、しかも同じ。私はこれが分からなくて、人に問い続けましたが、分かりませんでした。ただ一つ、私を、この宇宙のすべてを造られた神を私は信じています。分からないのに、三位一体の神を信じ、信じることができる者とされていることをうれしく思います。

悪霊は存在しますか。
ピーター:

もちろん存在します。光があるということは、暗闇もあるということです。神がおられるということは、悪霊もいるということです。

悪霊のボスをサタン(悪魔)と言います。もともと神の三大天使の一人でしたが、神に謀反を起こし天界を追われた時、天使の仲間の三分の一を誘惑して、共に地上に落とされたと聖書にあります。これらの堕落天使が悪霊になったのです。そして地上に様々な災いが起こるようになりました。

それなら初めからサタンを、悪霊を抹殺しておけばいいではないかと誰も考えます。しかし、神はそうなされず、この恐ろしいものが地上に存在するのを許されたのです。人間の自由意志を試すためだとか神学者や哲学者は言うのですが、本当のところは誰にも分かりません。もちろん私にも分かりません。

ただ、悪の存在が宇宙にあるというのは、神の深い計らいのような気がしてならないのです。存在には必ず影があるというのは、存在そのものの神秘であり、興味の尽きないところです。多くの芸術家は、光と同じくらいに影の部分からも創造のインスピレーションを得ていますね。

しかし、よほどの導きがない限り、この領域には入らないで下さい。危険です。信仰者も悪霊の存在を気にするより、光なる方、愛なる方を見ておれば、すべてが整えられてきます。

美津子:

光なる方がおられるのですから、悪霊は存在するかしないかの議論はいらないと思います。ただ私は、悪霊につかれた人を祈って初めてキリストの力の絶大さを、その御名の力のすごいことを体験として知りました。キリストの恵みがあまりに大きいものですから、大きすぎて、どんなに守られているか、分かっていなかったのでしょう。

主は、悪霊に勝利された方です。悪霊を使ってまでも、ご自分の愛と勝利を現して下さることがあるのだと思っています。 

すべてのものをお造りになった神は、お釈迦様もバイ菌も悪霊も造られたのですか。
ピーター:

そうです。すべてのものは造られたもの。お釈迦様自身、自分のことを覚者(悟りを開いた者)と言われており、神とは言われませんでした。開祖と言われる人たちは、確かに卓越した悟りを得た者たちです。しかし、被造物として自分のフィルターを通して神の悟りを語るのであって、神ではないのです。

世界中に、たくさんの宗教があります。どれも真理の一片を伝えてくれますから、光を持っているのですが、真理の全体ではない。被造物が考え出した、また到達した悟りに基づいて諸宗教があります。仏教を悪と見なすかという質問があるでしょうが、悪ではありません。神の光の一部を示すが、全貌ではないということです。

しかし、被造物の中には、一見マイナスの価値しかないもの、悪としか思えないものがあるのも確かです。菌でもプラス面を持っているのが多いですが、エイズとかガン細胞とか、どう考えてもプラス面を持っていない、はなはだ害を及ぼす存在について、これも神の創造かと質問されているのですね。この質問には、「悪霊も神に造られたか」という恐ろしい問いが含まれています。

答えは「YES」

それでは、神は悪を助長されるのですか。

答えは「NO」

神はすべてを造られたのです。すべてのものの中には、神の光がある。しかし、神の創造活動が完成しているのではありません。私は、全宇宙がその完成に向かって進化しているのだと思います。進化のゴールは、愛なるキリストです。宇宙生命は神から発し、キリストに向けて進化している。

生命の進化は、ゆったりとした大河の流れにも似ています。ところが、この進化においてある時、革命的なことが起きました。キリストの十字架と復活です。全宇宙の進化はこの一点、キリストの十字架と復活の中に凝縮され、この一点において完成してしまったのです。

その完成は霊的次元であり、目に見える現象世界はまだ完成からほど遠い。だから世界には戦争があり、憎しみがあり、ガンがはびこり、悪が蔓延しているように見えます。でも、決定的な革命はもう終わったのです。

十字架で被造物の悪をあがなった方が、今や全宇宙を支配され、そして全宇宙はこの方に向かって動いています。造られたものが、造られた本来の姿に帰る、オリジナルな目的に目覚めるようになれば、全宇宙の進化は完成するでしょう。

すべてのものが、マイナス面をもあがなわれた神をよろこび、造り主を賛美する時、キリストにあってすべての被造物が神と和解するのです。

バイ菌も、エイズウイルスもあがなわれて、いやしの主をほめたたえるでしょう。ガン細胞も、自分中心に人体を食い尽くすわがままから解放され細胞のあるべき姿に変えられていくでしょう。

預言者イザヤは、愛の進化が完成した世界を見ました。

おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。(イザヤ11:6-9)

十字架で霊的に完成したものが、こうして現象世界でも姿を現し、完結する。すべての造られたものが、互いに調和し、互いに害を及ぼすことがなくなるのです。

今、私たちは十字架とその完結への中間にあり、進化のプロセス上にあるのです。だから、御国が来ますように、天に御旨が成るごとく地に成りますように、十字架の完成がこの地にも一刻も早くなりますように、と祈るのです。

全被造物が主をあがめ、主の愛と光に満たされるなら、被造物の本来あるべき姿に必ず立ち返る。毒蛇も、諸々の菌やウイルスも主をほめたたえるでしょう。

では、最後の質問。サタンもこの調和の中に入るのか。悪魔も神をほめたたえるようになるのか。サタンも元々は神に造られた天使でした(イザヤ14章、エゼキエル28章)。被造物だから、最終的には神の和解に入れられるとも言えます。しかし、私には未だ分からない次元の世界です。

この一番難しい質問から逃げることになりますが、悪の存在の深い理由は、神の神秘として秘められているような気がするのです。被造物である私たちには、終局のことは啓示されていない。

ただ、私たちは造られたものとして、神の大いなるいのちの進化の途上にあり、進化はキリストを目指しており、十字架を知ることにより覚醒した魂は、進化のプロセスを速めるのだと信じます。

すべてを神様のわざと見ると、コトの本質が分からなくなるのではありませんか。
ピーター:

コトの本質や事実関係を客観的に見ると言いますが、どこまで客観的に見えているのでしょうかね。モノを見るというのは、見る私がいるから可能なこと。見る私が偏見にとらわれていると、モノの本質が見えてこない。

一番いいのは、見る私が限りなく透明になりモノの本質に肉薄する、いや、モノと同化して一つとなるのが、本当の意味でモノの本質を知ることになるのでしょう。

松尾芭蕉は、「松のことは松に聞け、竹のことは竹に聞け」と言ったそうですが、これはモノの本質を知る達人のやり方です。しかしそんな洞察は、凡人の私たちにははなはだ難しい見方です。

人は客観的にモノを見ると言いますが、本当にそんなことができるなら神業です。人間はみな自分の角度からしか見ていないのです。

人間にはできないのだが、しかし神業のようなことが、神の目を持つなら可能になるのです。神の目を持つというのは、キリストを見ようとする目です。すべてにキリストを見ようとする時、神が見ている目が与えられているのです。

何でもかんでも神様、神様と言う人は、狭い独断と偏見のかたまりみたいですが、実はこの人の方がモノの本質を見ているのかもしれませんよ。

美津子:

私は、すべてのことに神のご計画があると信じているのです。どんな偶然にも、どんな必然にも神の御手がある。それは無理してこじつけようというのではありませんし、考えることを放棄しているのでもありません。

そして、あらゆることの中に神の御手を読み取る目を持つことができたら、私の人生はどんなに豊かなものになることだろうと思っているのです。

神の愛とはどんな愛ですか。
ピーター:

愛というのは、一つになりたいという衝動、愛する者と一つになりたいと願う思いです。

神様が人を愛するというのも、人と一つになりたいという願いであり、その現れがイエス・キリストでした。聖なるものが、肉なるものと一つになったのです。

イエス・キリストを通して、神は全人類、全被造物と一つになることを願われました。聖なる神にふさわしくない人間や被造物の汚れを十字架の上で吸収し、全被造物と和解の道を開いて下さいました。人間の側から神にアプローチすべきなのにできないので、神の側から人間にアプローチされたのです。被造物の罪汚れをことごとく吸収された。これが神の人間に対する愛です。

私たちと一つとなるために、キリストは私たちの罪汚れを自ら背負われた。その打たれた傷により、私たちはことごとくいやされたのです。

神の愛は、捨て身の愛ですね。人間の愛は、いかに相手のために身を捧げても、その愛によって自分が生かされることを願う。だから、私がこんなにあの人を愛しているのに、あの人が私の愛を受け入れてくれないと、私は傷つき怒ります。

しかし神様の愛は、私が受け入れていないのにそれでもなお愛し続けてくれる愛、私を生かすことしか考えておられない愛です。捨て身の愛なのです。自ら死んで私を生かす愛なのです。

美津子:

神の愛というのは、私には無条件、無代価なものという思いがします。愛されるのに何の条件もいらない、また一切の見返りを求めない愛であると思います。

人間の愛には、まずあり得ない愛です。母が子を想う愛は少しそれに近いものですが、人間の本能に基づくものですから、無条件であり見返りを求めない愛でありながら、いつ変わってしまうかもしれないところがあります。子供のためだけと信じているのが、いつの間にか自分の願いのためにと変わってしまう。

人間には、自分が第一に可愛いという本能がある。極言すれば、人間は自分以外の人を本当には愛することができないようになってしまっていると思うのです。

人間の本能とか、肉の持つ性質に一切影響を受けない愛というのは、十字架なしにはあり得ないと信じています。ということは、主を信じる信仰によって、人を本当に愛することのできる者にされると信じているということです。

人は、この世の生活の中で人と協調して生きようとしています。人を無視して生きようとすることも、人を意識してあえて人と協調しない姿勢をもって、この世の中と協調しているようなものです。人は人間関係から全く離れて生きることはできないからです。

その中で、人はやむなく本当の自分とは違った自分を演じざるを得ない。それが人のことを思う配慮であったり、あるいは人を愛するためのよろこびであったりするとしても、本当の自分を知らず知らずのうちに歪めてしまっていると思います。人間関係の中でしか生きられないから、何が本当の自分かも分からなくなってしまっているのでしょう。

神の愛は、その人をあるがままに受け入れ、愛して下さる愛ですから、神の愛に愛されると、人は初めて本当の自分に目醒め始めます。

私は主に出会って、初めて自分が知らないうちに自分を別な私に変えていたことに気がつきました。夫に気に入られる自分であろう、人に受け入れられる私でありたい…これはごく自然なことですから、決して良くないということではありません。しかし、愛する人のためにそうしているのであっても、実は自分の内に、本当の自分に戻りたいという願いがあることを知ったのです。

本当の自分を知ると、そして知った上で人を愛する時、もはや自分を変えようが歪めようが、それはよろこびであり、相手の反応に傷つかなくなっていくということが分かってきました。神の愛に目が開かれるほどに、このままの私でよいというようになります。

こんな私が愛されているのだから、その同じ愛が隣人にも注がれているのだから、いえ人だけではない、全地に神の愛が注がれているのだから、その愛をよろこぶだけでよい。

いったい自分は何をあくせくしていたのかしら。私があがいたところで、疲れるばかりで何一つ変わりはしないのに…。神の愛を信じられるほどに、自分の無力、非力がうれしくなってくるのです。

神の愛はあまりに無条件だから分かりにくいものですが、いったん信じると、人生を変えてしまいます。愛そう、愛そうと努力することもない。神の愛の中に置かれていることをよろこんでいるだけでよい。それだけで愛することのできる者とされていくとまで信じられるのです。

つい先日、ピーター先生が「神の愛が分かりたい分かりたいというのは、庭に出てうずくまったまま、太陽が分からない分からないと言うようなものだ」とおっしゃったことがあります。雲が空を覆い、あるいは嵐になっても、あるいは夜の暗闇が来ても、実は太陽がなくならないように、神の愛も在る、在り続けるということだと思います。うずくまっていないで、目を空に向けたいですね。

イエス様はどうして十字架にかからなければならなかったのですか。
ピーター:

十字架にはりつけにするというのは、ユダヤ人の法律にはなかったことで、もしユダヤ律法で死刑罪が確定していたら石打ちの刑だったでしょうね。十字架刑はローマのやり方です。

当時、ユダヤはローマに支配されていましたから、ユダヤの宗教家たちは、ローマの統治者ピラトに訴えて、イエスの死刑を勝ち得ました。ユダヤのエリートたちは、ローマ人を異邦人として密かに軽蔑していたのですが、自分たちの野心を満たすためなら、なりふりかまわずローマの権力を利用しました。

ピラトのもとにおける裁判で、イエスの罪状を見つけ出すのは困難でした。「イエスが宮殿を壊すと言った」とか、とんでもない言いがかりを見つけて、なんとか死刑までこぎつけましたが、ピラトでさえこれが滅茶苦茶な言いがかりであるのは知っていたので、「自分にはこの者の血の責任はない」と逃げました。ピラトがイエスを釈放したかったのにできなかったのはユダヤ人の暴動を恐れたためで、明らかに政治的配慮です。

しかし、そのような説明は外側のことであり、十字架の本質を説明するものではありません。外側を見るなら、イエスは「はめられた」のですが、霊の側から見るなら、十字架は絶対になければならぬ神のご計画だったのです。

人間はアダム以来、皆、自己中心に生きてきました。神とのハーモニーある生活ではなく、自己主張の生活をしてきました。その結果、人は皆、生きる痛みを覚えるようになりました。痛みと悲しみ、虚しさと絶望があるのみ。そこで神は愛のゆえに、暗闇にうずくまっている人間を救うため、人間の暗闇のいっさいを取り払おうとされました。

人間が肉体を持つことにより、罪を、悲しみを、痛みを持つようになったので、神もそれらの罪を、痛みを、悲しみを取り払うためには、自ら肉体をとる必要があったのです。肉をもって犯された罪は、肉をもってあがなわれる必要があったのです。

イエスの十字架は、私たち人間のすべての痛み、悲しみ、病、罪をことごとく吸収されたところであり、ブラックホールのように吸い込んだら再び出ることのない吸引器でした。十字架に吸収された影は、再び出てくることはない。

だからキリストの十字架を信じることにより、私の暗闇、罪、病は取り払われ、私はあがなわれた。サタンの支配下にあった私を、神は暗闇から、死から、罪の奴隷状態から買い取られたのです。

こうして自分の力ではどうしても入ることのできなかった光といのちの世界、神の世界に、今や神の子供として入ることができるようになったのです。キリストの十字架がその道を開いてくれたのです。十字架なくして救いはない。

キリストが私たちのために死なれたということが大事なのであって、刑の仕方が問題ではないのです。イエス様が石打ちの刑で死なれていても、あがないはもちろん完成していたでしょう。

子羊の群れの礼拝では、どうして歌(賛美)が多いのですか。
ピーター:

礼拝というのは歌う会ではありません。歌いたくなければ歌わなくてもよい。声に出して歌わなくても、心の中でたった一言「ハレルヤ」と言うのも賛美です。

礼拝というのは、主を賛美することです。賛美のただ中に主がおられると聖書は言います。礼拝は、説教や聖餐式、献金、また証があったりしますが、賛美が初めから終わりまであるのです。歌っていなくても無言の賛美が流れています。声に出して歌うのも、その賛美の現れです。

子羊の群れの礼拝が賛美中心なのは、主が一番よろこばれる賛美で礼拝を満たしたいからです。そして、深い賛美の中で、主がよろこばれていると分かる時、私たちの魂もよろこんでいます。主のよろこびを共によろこぶ礼拝、これが賛美の礼拝です。

子羊の群れの賛美礼拝の中でいやされたとか、祈りがきかれたとか、よく聞きます。賛美のただ中に主がおられるから当然のことですね。特定の伝道者から祈ってもらうよりも、主が賛美の中でタッチして下さったことを体験すると、本人の信仰も強められます。牧師中心、説教中心の礼拝より、賛美中心の礼拝の方が主もよろこばれ、私たちもよろこびが大きいのです。

美津子:

歌うことと賛美とは違う。演奏と賛美も違うと思っています。主をよろこび、主に感謝し、主をほめたたえる。この心が賛美ですから、音程の狂った歌でもいいですし、壊れたピアノでも賛美できます。賛美している時というのは、私の魂が最も穏やかで、静けさに満ちる時。そこからよろこびが湧いてきます。

うれしいから賛美するのか、賛美するからうれしくなるのか、その両方なのでしょうね。人の魂とは、もともと主を賛美するよろこびにあふれているものだと信じているのです。主のよろこびを最も敏感に感じ取ることができるように、人は造られていると信じています。

賛美はたくさんする必要はありませんが、また少なくしなければならないものでもありません。心からの賛美が満ち、人々の心がよろこびで一つとなっていくのが賛美の中で分かっていくというのは、それだけでもうれしいのです。主のよろこびに一つとされるのでしょうね。

そんな時、人はいやされ、問題の答えを与えられたりします。主のされることに、幼な子のように正直に、素直にされているからではないかしらと思います。

「信仰とは何を見るかである」、「キリストを見る」と聞きますが、どういうことですか。
ピーター:

キリストを信じる、信じ続けるという意味です。信じるというのは、信頼するということでしょう。人間の関係では信頼が裏切られることがありますが、神の御子イエスだけは私の信頼を裏切る方ではない。どこまでも、どこまでも信じることができる。

私の生活状況は思うようにならず、むしろ悪化するように見えるが、しかし主は、すべてを益とするような愛をもって、私のすべてを支配されておられる。だから、この方の愛を信じよう、すべてにキリストの愛を「見よう」とする信仰を持つ。それは無理をして信じようとするのではなく、主を信頼すると自然と信じられる魂の目なのです。どんな小さなことにも、どんな悪い状況の中にも、「いや、主がおられるのだから、これも意味のあること」と単純に信じられる、愛を見ることのできる信仰なのです。

そして、そのようにすべてに「キリストを見る目」があるから、いのちの流れが好転して、「あ、本当にすべてのことは益となっているな…神様の愛がすべてに流れているな」と悟るようになるのです。主は奇跡を起こして下さる神。しかし、奇跡が起きても起きなくてもよい、すべては主の御手にあるという信仰は、神様からの贈り物です。いいことにも悪いことにもキリストを見る目があるというのは、何よりもすばらしい天からの贈り物です。

美津子:

 「信仰とは何を見るか、すべてにキリストを見ることである」とよく聞きますね。

たとえば、子供が病気になって弱っているのを見て、親が必死になって主に祈る時、子供の病気にキリストを見るなんて、なかなかできませんよね。神はご自分の愛を分からせるために苦しみを与えるような意地悪な方ではありませんが、病気を通して何か語っておられることがあるのかもしれない、それを見ようとする目のことなのです。その目を持つと、目の前の状況に少しずつ振り回されなくなっていきます。主が悪いようにされるわけがないと信じることができるようになるからです。

すべてのことを自分の思いで判断しないで、主は何を計画しておられるのだろうと見ることだと思います。そして、自分の思いや願いで動かされてしまわずに、主を信じる、主の目で見ようとすることの方を選ぶ、これを信仰の決断と言えると思います。

自分で負わないで十字架に返しなさいと言われます。私も苦しみや病を自分で持っていたくありません。でも、どうしたら十字架に返せるのですか。
ピーター:

こんな病や苦しみは耐え難い、もう自分の力の限界だ、と感じるでしょう。主が取って下さるものなら、心から取ってほしい。あなたがどんなに痛み、苦しんでいるか、主がご存じです。そして、あなたの痛み、苦しみのすべてを吸収するために十字架が設けられたのです。だから、そのままの自分、そのままの生活状況を主にゆだねるのです。

病気が続くなら、それは主の責任。この重荷を担ぐのは主の仕事。私の力ではない。主の責任なのですから、この方に任せればいい。信じ込もうと努力する必要もない。主が信じ、主が祈って下さるのです。

美津子:

主が二千年も前に、私のこの痛みをすでに十字架の上に取って下さっているのだと信じたいのに、今の痛みがあまりに現実的だから、本当はもうない痛みだと信じることは難しいですよね。

しかし、自分一人で負うていると思う重荷が実は、イエスさまがすでに負うて下さっているものだと感じることが少しでもできると、荷が少し軽くなった気がしませんか。

そして、本当は気がするからではなく、事実として主が負うて下さっているのです。主があなたのために命まで捨てて下さっているのです。押しつぶされそうなその現実の重みの中で、あなたはそれを信じますか。信じようとしなくても事実は事実なのです。

信じる。信じてゆだねる時、同じ重い荷がもはや重くなくなっていくのが分かってこられることでしょう。

教会開く

神の名による征服や制圧が歴史上たくさんあります。宣教師が未開地に入り込んで、土着の信仰や文化を滅ぼし、キリスト教に変えさせたという歴史があります。神はそこまですることをゆるされるのですか。
ピーター:

そんなことは考えたこともなければ、していいことだとも思いません。教会は、かつてキリストの名において信じ難いほどの残虐な行為を世界各地でしてきました。十字軍を派遣して、聖地エルサレムのイスラム教徒を虐殺し、宗教裁判をしてはユダヤ人の撲滅を計り、魔女狩りをしては教会にとってうさんくさい者を火あぶりの刑に処し、またインカ文明を壊滅させたのもキリスト教宣教師とスペイン人でした。

悲しいことです。でも、キリストとキリスト教を混同しないで下さい。キリスト教というのは、人間の考えた思想体系の一つであり、仏教やイスラム教と同じように宗教の一つです。

宗教というのは、キリスト教だけではない、他の宗教もあくどいことをしてきましたし、今もしている。かつてマルクスは「宗教は阿片だ」と言いましたが、宗教の持つ悪魔性というのは事実です。そう言ったマルクスの共産主義も、まさに一種の阿片でした。宗教や思想(イズム)というのは、人を狂わせるものがある。

キリスト様は違います。キリストは人々の愚かしさを嘆かれ、ご自分の名によってなされたその様々な悪に痛まれています。キリストの名をかたって悪をなすキリスト教徒のためにも、十字架で血を流されました。人々の無知と残酷性に、主は痛まれ、涙されていました。

私はキリスト教の弁明は一切しません。キリストの名をかたるキリスト教徒の罪を痛み、彼らのために祈りたいと思います。

私たちが伝えるのは、十字架につけられたキリスト、よみがえりの主、この方の驚くべき愛だけです。この方の愛は、すべてのものを含む愛、仏教徒もイスラム教徒も無神論者もすべてが含まれる愛なのです。

「キリストだけが道でありいのちである」と言う時、私たちはキリスト教の優越性を説いているのではありません。キリストだけが十字架で私たちの罪のために死に、三日目によみがえられた方であり、この方の愛が全宇宙を包んでいるということを言うのです。キリストだけがいのちのいのちを与えて下さる。

国家がキリスト教国になると平和が来ると無邪気に信じる人々がいますが、私はあまり信じていません。確かにアメリカなどは日本に比べ、はるかにキリスト信仰が表面に出ていますから、伝道という面においてもやりやすい。しかし、歴史上初めてキリスト教国となったローマ帝国はどうでしたか。宗教が政治権力と結託すると、ろくでもないことを始める。キリスト教が権力の座につくのは、イスラム教が権力の座につくのと同じくらい、危険なことです(戦前の日本の天皇崇拝による宗教国家や、現在のイランなどの宗教国家を見ると、宗教が建て前の政治形態がいかに危険なものであるか分かるでしょう)。

私は世界がキリスト教に統一されるとは思いませんが、仮にそのような動きがあるのなら、絶対反対です。宗教の押しつけほど恐ろしいものはないからです。

しかし、何度も言いますが、キリスト教(キリスト教文明)とキリスト様は根本から異なります。前者は死をもたらしますが、後者はいのちをもたらす。

もう一つ難しい質問がなされていますね。「キリスト教の残虐をなぜ神がゆるされたのか」という質問です。

人々が無知と傲慢さのゆえに、キリストの名を語って悪を行なっても、それは神から出たことではないから、神がストップをかけるものではないのです。主は非常に痛まれていると思います。しかし、ナチの狂気にストップをかけなかった神は、キリスト教の愚行にもストップをかけませんでした。いや、人間の罪の行ないにストップをかけられない神なのです。これはとても難しい「悪」の問題とも関係しています。

カトリックとプロテスタントの違いは何ですか。
ピーター:

もともとカトリック、プロテスタントの区別はありませんでした。教会ははじめ国家から迫害を受けましたが、ローマ帝国の国教になり安定した頃、使徒ペテロを初代の法王様と仰ぐ教会が作られました。

カトリックというのは、ユニバーサル(普遍的)という意味で、ローマのバチカンに本拠を持ち、法王をその頂点に持つ全世界的な教会組織です。中世に修道院が発達し、修道僧、シスターは独身をもって主に忠誠を誓いました。

ところが中世、教会が国家権力と結びついて堕落し、人の魂の救いをないがしろにした時、修道僧であったマルチン・ルターが抗議(プロテスト)して、新しい教会運動がヨーロッパに起きました。これがプロテスタントの起こりです。カトリックとの一番の違いは、救いは各々個人の信仰によって与えられるという考えです。救いは、教会の独占物ではなく、誰でもキリストを受け入れた者に与えられる、万人祭司主義を唱えました。

そう言うと、カトリックがインチキで、プロテスタントが正しいように聞こえますが、キリストを信じるなら、カトリックもプロテスタントも変わりないと思います。プロテスタントは、カトリックがマリヤ崇拝をするから迷信が多い、法王は悪だと非難しましたが、現代のプロテスタント諸教会の教条主義は、独断的で、鼻持ちならないものが多すぎます。

現代のカトリックのいいところは、巨大な世界的組織を持っていながら、土着の文化に対してプロテスタントよりも寛大なことです。見るべきもの(神)を見ておれば、異国の文化、風習に対して目くじらを立てなくてよいのです。

要するに、主だけを見ておけばカトリックもプロテスタントもないのです。エンジンとタイヤがついていれば、型は少々違っても同じ車ではありませんか。十字架と復活が信じられているなら、あとは少々違っても同じクリスチャンです。

美津子:

私は、カトリックのミサに出たことがあります。メッセージはよく聞こえず、何一つよく分かりませんでしたが、全体に静かに満ちてくる聖霊の流れに触れて感動しました。主の御名によって人の集まるところに主はおられる。私にはなじみの薄い礼拝の形式なのに、カタチを越えて主の強い臨在を感じました。

霊とまことをもって主を礼拝するという時、カタチがあることにもカタチのないことにもこだわる必要がないと感じました。同じ主なのですね。

同じ神なのにどうしてプロテスタントでもいろいろな教派、教会があるのですか。
ピーター:

ルターの万人祭司主義は、個々人に信仰の解放をもたらしましたが、同時にたくさんの教派教会をつくる原因にもなりました。各々が自分の確信に基づいて教会をつくるのですから、当然たくさんの教派教会ができます。それを罪と見るか、いやこれも祝福と見るか。

たくさんに分かれているのは悲しいことだから一つにまとまりましょうという動きが、第二次大戦前から欧州やアメリカを中心に始まりました。エキュメニカル運動(超教派運動)と言うのですが、偉い先生や指導者が音頭をとっているにしては、少しも進展していません。

私は様々な教派教会があっていいと思います。外側から無理に一つにする必要はない(第二次大戦中、軍部の圧力で日本の諸教会は日本基督教団として一つにまとめられました。外部の圧力で一つになるのはイヤでしょう)。

キリスト・イエスの十字架と復活を信じるなら、私たちはどの教派、どの教会に行っていても主にあって一つ。そして、主にあるということは私の個性がなくなるのではなく、むしろ個性がはっきり出るのが自然なのです。

神の庭には様々な花園がある方が楽しいではありませんか。他の花園にあるものは花でないとケチをつけることはしませんように。私たちには私たちに合う花園があっていいのです。

美津子:

主のいのちがより多く流れるためであるなら、いくら分かれてもいいと思いますが、他教団、他教派を非難し、批判することによって、自分だけが正しいと主張するなら、あまりにも悲しいと思います。

私は主に出会ったばかりの頃、手を置いて祈るいやしの祈りは認めない、異言は酔いどれの言葉のようなもので、この教会には関係ないから安心して下さい、というメッセージが語られた礼拝に出たことがあります。そう言われた先生にも、それを信じてうなずく人々にもびっくりしてしまいましたが、その礼拝の中、私はひどい疲れがすっかりいやされてしまったのを思い出します。主を礼拝するところに主はおられるのですね。もっとも人の教えた教義で主の力を制限したり、イエスさまを歪めたりしたくないと思います。

また、主に出会って二年くらいの頃だったと思いますが、アメリカのあるスペイン系の町の小さなカトリック教会にたまたま入った時、「あ、ここは私の教会だ」と感じたことがありました。どこの町へ行っても、日本でも、どの教会も主の教会、そして私の教会という思いがするのです。

聖書に、より聖書の教えだけに戻っていくなら、そして聖書に書かれたイエス・キリストをそのままに信じる方向に向かうなら、一つになれる。目には、いろいろ、バラバラなように見えても、一つに向かうと信じています。キリストにあって一つであるから、バラバラでよいということもあり得ますね。

教会とは何ですか。どうして教会が必要なのですか。
ピーター:

教会というのは、目に見える会堂やまた牧師のいる○○教会という組織のことではありません。イエス様を信じる者が二人三人集まるところが、神の教会です。イエスを信じ、イエスを礼拝するところが教会なのです。キリストを信じる者は、一人残らず天の教会に属しているのです。

一人でも神を礼拝することはできます。そして、一人で神に向かうのは必要なことです。しかし、弱い私たち人間は、二人三人と一緒になって主を礼拝することによって、共によろこびを分かち合い、共に祈り合うことができます。弱った時に信仰の友が一緒に祈ってくれることほどうれしいことはありません。

人間は霊だけでなく肉体を持っていますから、目に見える地上の集いも必要なのです。天の教会だけでない、地の教会も要るのです。毎週、礼拝するところがあるのは、私たちの霊的なよろこびとなります。

教会はまた、からだにたとえられています。からだの各パーツがそれ自体で働かないように、私たちも一つのからだにあるから機能するので、からだから離れて手足が動くのでないように、キリストのからだにあって、あなたも、私も生かされてくるのです。同じいのちを共有する者とされたということです。共に祈り、共に賛美する。それが教会であり、それがキリストのからだです。

聖餐式とは何ですか。
ピーター:

イエス様が十字架にかかられる前、お弟子さんたちを集め、パンを裂き、葡萄酒を分かち合い、「これはわたしのからだである。これは多くの人のために流すわたしの契約の血である」と言われました。

礼拝の中で聖餐式を行うのは、見えない神が、イエスという見える体をとって来られたことを信じ、その十字架を覚えるためです。

神の愛は、目には見えない神がなんと私たちと同じ体をとって来られたという神秘です。そして、肉体を持つ人間の痛み、悲しみ、罪のすべてをこの方がその肉体に負われ、血を流された。神の神秘の神秘は、十字架です。

だから聖餐式を持つ時、パンを食べ、葡萄酒を飲む行為の中に、主イエス・キリストの臨在を覚えるのです。聖餐式は、主の受肉(肉体をとられたこと)と主の十字架の再現なのです。心にあるわだかまりを、ことごとく主に告白し、キリストのゆるしを得て下さい。また十字架のいやしを受けて下さい。

私は、今まで多くの人が聖餐式のただ中で病気からいやされ、またインナーヒーリングを受けるのを見てきました。聖餐式は主の十字架の現れですから、当然なことです。

礼拝するとはどういうことですか。
ピーター:

礼拝するとは、神の前にひれ伏すこと、神をほめたたえることです。人間の最も深い本能だと思います。造り主に出会い、造り主をほめたたえたいという本能です。美しいものや壮大なものを見ると、驚嘆の声をあげるでしょう。ほめたたえるというのは、そういう驚き、よろこびの表現なのです。

「霊とまことをもって神を拝せよ」と言われます。

神はすべてのものを造られた方、すべてのものの背後におられる霊なる方。だから私たちも霊を開き、全存在をあげて神をほめたたえるのです。

賛美は礼拝の中心です。賛美というのは、主をほめたたえることですから、これなくして礼拝はあり得ません。

教会の礼拝は牧師の説教が中心だと思っている人が多いでしょうが、間違いです。賛美が中心なのです。説教はあってもいいが、なくてもいい。しかし、賛美のない礼拝などあり得ません。

賛美のただ中に主がおられるのです。賛美を感情の高まりと誤解してはなりません。人間は感情を持っていますから、賛美の高まりの時、感情も触発されるでしょうが、賛美は霊の働きなのです。賛美の中で、信仰のすべてが完成しているのです。

聖書開く

聖書はどうしてあんなに長いのですか。
ピーター:

聖書は全部で66巻の書物から成っています。そのうち旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻あります。それぞれの書物が独立して書かれたので、著者も多数、書かれた年代も数百年にわたっています。旧約聖書は紀元前4世紀頃に編纂され、現在の形になったようです。新約聖書は4世紀頃、正典として完成しました。

旧約聖書は、ユダヤ人のために神の啓示として与えられたものですが、大きく分けて律法と預言書から成ります。律法というのは法律のようなもので、従うべき規則がたくさん書かれています。預言書はユダヤ人に対する神のメッセージが語られていますが、特にメシヤ(救い主)の到来が予言されています。

新約聖書は、メシヤ(救い主)がイエス・キリストとして来られたと言います。新約聖書は、イエスの行状を書き記した四福音書、使徒たちの活動を記した使徒行伝、おもにパウロの手紙をまとめた書簡集、最後の黙示録から成っています。

全聖書を読むのは大変でしょうから、新約聖書、特に福音書を読むのを勧めます。キリストを信じ、主の愛を感じる時は、聖書がおもしろいくらい分かる。聖霊が働いているからです。聖書はたくさんの人々の手によりましたが、その背後の真の著者は聖霊です。だから不思議な一貫性があります。聖書のどこを読んでも、キリストを指し示しているのです。

難しいところもたくさんありますが、やがてこれが神様の私に対するラブレターだというのが分かります。恋する相手のことは何でも知りたくなるでしょう。そのうち聖書のすべてを知りたくなります。それまでは無理をすることはありません。読みたい時に、読みたくなるところだけを読めばいいのです。

さらに、キリストを信じることにおいては、新約聖書だけで充分だと思います。

旧約が救い主の到来を待ち望んでいたのに対し、新約はキリストの来たことを宣言しました。旧約と新約の「約」とは契約のことで、旧約は神様がユダヤ人と契約し、それがもう古くなったので、今度はユダヤ人だけでない全人類と新しく契約をし直したのが新約聖書です。この中で、私たちのために十字架で死に、三日目によみがえられたキリストを信じる者は永遠のいのちが与えられると約束(契約)されました。

旧約聖書はユダヤ人向けのものですが、新約聖書では、キリストによって神の約束がすべて成就したと言います(Ⅱコリント1:20)。すべての約束というのは旧約も含まれていますから、イエス・キリストを通して旧約を読むと、ユダヤ人へのいろいろな約束や教えが私たちへの約束や教えにもなるのです。もはやいかめしい法律としてではなく、愛の言葉として迫ってきます。だから旧約聖書もたいへん有益なものですから、今は読めなくても捨てないで持っておいて下さい。

美津子:

私にとっては聖書が長すぎると思っていた頃、そして多くのクリスチャンが「今日はこんなみことばが与えられました」と言われるのを聞いてもどういうことなのかさっぱり分からなかった頃、私にも「みことば」が与えられないものかしらと一工夫してみたことがあります。

まず、「今、私に最も必要なみことばを下さい」と祈って、パタリと開いてみるのです。その偶然開いた両頁、あるいは次の頁を読んでみて、心にひびく一節を見つけ出します。

聖書を開くところに偶然はないと聞いてやってみたことでした。そして確かに私に必要なことが与えられてきました。パタリ方式や、あるいはあなた独自の開き方を考え出されてもいいと思います。今の私は、聖書の厚さが気にならなくなり、聖書のどの一節も主の愛が流れているとまで思えます。常識的なモノの見方しかできない人間には、「いのち」に目が開かれるために、必要な長さだと思うようになりました。

旧約聖書の残虐さはどう理解したらいいのですか。
ピーター:

確かにひどい記事が多いですね。イスラエルの敵、神様の敵なら子供まで含んで皆殺しにしていいとか、凄まじいことが記されています。皆殺しの思想というのが旧約にはあります。この思想を受け継いだ西欧にも同じような残虐性があります。

中世西欧における戦争は、街ぐるみの戦争で、街の回りに壁を建て、戦争に負けると街にいた者たちは皆殺しにされたり、よくて奴隷とされました。旧約聖書そっくりです。

それに反して、日本の戦国時代の戦争は、プロ同士の殴り合い。山の上にあるお城を取ったら勝ちというわけで、殿様の首をあげたら勝負はつきました。城下町の住民が皆殺しになるというのはありませんでした(例外は、信長の比叡山焼き討ち事件くらいでしょう)。

私は聖書の弁解はしませんが、旧約聖書の残虐さは人間の無知によるものであり、神の積極的な指導だとは思えないのです。

確かに神がイスラエルの民に敵の皆殺しを指導しているような箇所がありますが、彼らが神の啓示をそのように取った、いや取らざるを得ないほど無知であったと思うのです。無知だというのは、彼らはまだ神の啓示の全容が見えていなかったからです。

幼い子供にすべてを教えることはできません。成長に従い大事なことから教えていきます。子供はおもちゃの取り合いをして殴ったり泣いたりすることからも大切なことを学んでいるのです。おもちゃの取り合いが残虐だと、他の子供から離して育ててごらんなさい。喧嘩をしない子供の自我はいびつに成長します。どこまで自我を主張していいのか分からなくなり、情緒不安定な性格をつくる原因になります。

人類の歴史においても、神はまずイスラエルを選び、この子供に神の思い(啓示)を教えるため成長に従い大事なことから教えていきました。喧嘩、戦争もその一端です。戦争そのものが目的ではありません。人間が神の目的に沿うように成長するのが神の願いなのですが、成長過程における喧嘩もやむを得ない学びの時なのでしょう。

神の願いは、人がキリストに出会い、愛を受けることにより全き者とされ、すべてを愛し、すべてにキリストを見ること。それがまことの礼拝なのです。

美津子:

私は、残虐さをどう理解したらよいのか分かりません。しかし、分かろう分かろうとする思いの中に、いい理由を見つけて神を否定したい、信じたくないという自我があるなら、神は遠のいてしまいます。理解できないことなのに、理解できないということにこだわらず、理解できるはずのない計画が神にはあるのだと信じられる者にされていることの方がすごい。

私は残虐さを否定はしませんし、また理解もできませんが、神が愛であることを信じることができるのです。そんな私の内に矛盾はありません。納得したら信じてあげますという信仰ではなく、まず、神を信じる者とされたことをよろこぶ信仰に立っていたいと思うのです。

見たくないものには目をつぶり、無理して信じ込めと言うのではありません。神は、無理せずに信じることのできる者にして下さると信じています。よく分からないことは、分かろうとするより、分からせて下さる時を待てばよいと思います。分からないこと、理解できないことにも意味があるのだと信じます。

「信仰によって義とされる」と言いますが、「義」とか「義人」とはどういうことですか。
ピーター:

「義」とか「義人」という言葉は、現代の日本社会では死語ですね。ヤクザ映画で「義理」という言葉が使われるくらいでしょう。古代ユダヤ社会の言葉ですから、ピンと来ないのは無理もないことですが、現代風に訳すと、親指と人指し指を丸めてOKと合図する、あの仕草がそうなのです。

合格か落第か、発表の日、自分で見るのは怖いから、友達に見に行ってもらったら、友達は向こうからニコニコ笑いながら、親指と人指し指を丸めてOKの合図をよこした。やった、合格だ! つまり、受け入れられたということです。

神様は、私のような汚い人間が御前に出ることなどできない聖なる方。人前ではとても恥ずかしくて言えないことや行いも、神の前にはすべて明らかになっている。これはヤバイと誰もが感じる。

ところが、そんなヤバイ私たち人間なのに、キリストを信じることによって、全部の罪、つまり汚い部分が帳消しになる。全く罪を犯したことのない真っ白な状態になる。神から神の子として受け入れられるというのです。  「やった!」と叫ばずにはおられないでしょう。神様が、親指と人指し指を丸めてニコニコしながらOKと言って下さっているのです。

「義とされる」というのは、神に受け入れられるということです。イエス・キリストを信じた時に、あと死ぬまでどんなに罪を犯し泥まみれになっても、なお受け入れられる愛があるのです。そのことを聖書は「信仰によって義とされる」と言ったのです。

美津子:

義人なんて言葉は、好きではありませんし、やめてほしいなと思います。もっと分かりやすい言葉があるはずですよね。でも、イエスさまを信じた時、こんな私でさえも神の子とされ、神の前に正しい者(義)とされるというのは信じがたいほどうれしいことですね。イエスさまの十字架のおかげで正しい者とされたのですね。

でも、良くないことばかりし続ける私です。それでもなお、主を信じる信仰によってよしとされているなんて、全く辻褄が合いませんね。神の愛とはそんなメチャクチャな、辻褄の合うわけがないほどの愛なのでしょう。

だから、私たちは、主を信じる信仰によって、その神の愛に応えていきたいですね。

天の神様をどうして「母」ではなく「父」と呼ぶのですか。
ピーター:

神様に、男性、女性という性の区別はありませんね。創世記に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(1:27)とあります。男女の原型が神であるなら、神様の性は男女を統合したものということになります。「父」と呼ぶことによって、神の全体を指し示しているのです。この「父」の中にはもちろん「母」も入っています。

だから聖書にはないけれど、あなたが「天にましますわれらの母よ」と呼んでも少しもおかしくありません。私自身、長い間、「天にましますわれらの父よ」と言うことができませんでした。父を憎んでいたので、神様まで「父」と呼ぶことができなかったのです。「母」であればどんなにいいかと思っていました。でも、主が父とのわだかまりを解いて下さると、素直に「天にましますわれらの父よ」と呼べるようになりました。私は父なる神の中に、力ある父と愛なる母を見るようになりました。

美津子:

イエスさまは、天におられる神を「父よ」と呼んでおられますね。イエスさまがそう呼ばれるのですから、神の子とされた私たちも、それに習うというのでいいのではないかと思います。

イエスの母はマリヤ、地上で父として存在していたヨセフがいますが、聖書にあるように、聖霊によってマリヤが身ごもったということを信じるので、イエスさまの父は神という思いが自然としてしまうのかもしれません。

平安とはどういうことですか。
ピーター:

いわゆる平安、平和な状態というのは、悪いことが何もなく平穏無事な生活のことを言いますね。否定的な要素があまりないのが望ましい。人は誰しもそう願います。

ところが、聖書の平安というのは、否定的要素がない状態ではなく、悪いことやイヤなことはいっぱいあるのに、なぜか心はよろこびに満ちている、状況は悪いのに、いや大丈夫だという不思議な感覚があるというものなのです。周りの状況に左右されない。神の平安というのは常識を越えた平安です。この不思議な平安は、イエス様が共にいて下さるという信仰から派生してくるものなのです。

人は皆、心配事を抱えて生活しています。人を破滅させるのは病気や悪い事件ではなく、それらに対する恐れや心配なのです。不安感が人を崩壊させる。この時、人知をはるかに越えた神の平安が私を満たしてくれたらどんなにラクになるでしょうね。台風の真ん中でも目のところは風もない。心配事のただ中で少しも動じないものがある。イエス様が一緒におられるから、不思議な平安に満たされるのです。

そして、神の平安に満たされると、気がついてみれば、波も治まっている。神の平安、これはすばらしい神様からの贈り物です。

私も何度も危機に面してきました。これからも何度も面することでしょう。もうダメかと思う時、いつも不思議な主の平安に満たされてきました。状況は真っ暗な時でも、「大丈夫だ、わたしがお前と共にいる」という主の思いが迫ってくるのです。耳に聞こえる声ではありません。しかし、主であるというのは分かる。あの不思議な、不思議な平安があるからです。そして状況は好転していきました。主の平安に感謝。

美津子:

私は長い間、平安ということがどういうことか分かりませんでした。聖霊の「白いハト」によってイエスさまに出会って以来、あまりに心が捉えられ、心の思いのすべてが主に向かってしまう自分に、むしろあきれ、信じられませんでした。それまでどちらかというと冷静なタイプだったのですが、知性や私の意識で自分に起こっていることを理解しようとしてもできず、だから反発しました。そんな時、平安など分かりようがなかったのです。

「白いハトが神からのものなら平安なはずだ」と長いクリスチャンの人や牧師さんに言われると、平安を知らない私は痛みました。教会にも行ったことがなくて、何も知らない私が路上で聖霊に打たれて倒れるということは、今でこそ、主との出会いのスタートであったと理解できますが、私にとっては平安のない状態以外の何ものでもなかったのです。

そしてそのことを通して、私は神の平安というのは感情や感覚、意識の上では分かりにくいもの、いえ、分からないもの、感情とか感覚を越えたものであると思うようになりました。

自分はあわてふためいているのに、また激しく傷つき痛んでいるのに、深いところに自分の感覚にはない「平安」がある。嵐になって湖の水面は荒れ、濁ってしまうのに、深いところは揺れ動きもしない。同じようにわき続ける静かな泉がある。イエスさまを知るほどに、その深いところにある泉を意識するようになりました。

感覚や意識では分からないものであると言っていたのに、そして確かにそうなのですが、感覚や意識の上でも分かってくるというようになりました。私にとっては主への信頼なのです。信仰です。

たとえば、私はかなり泳げますが、深い海のほうへ行く時、一つ浮き輪があると安心です。疲れても浮き輪につかまればよいと思うからです。ところがこの浮き輪は傷んでいて、もう空気が抜けるかもしれないと思うと、とたんに不安になります。泳げないと、その不安はいっそう大きいことでしょう。この浮き輪さえあれば大丈夫、安心という感覚がイエスさまを知ると分かってくるのだと思うのです。信頼するほどに、不安は消えてしまいますね。

嵐になっても、嵐から救い出せるような浮き輪を与えて下さる。穴が空いても助けて下さる。泳ぐことに疲れても岸へ連れていって下さる。

だから、このままでいい。自分で波に逆らって必死になって泳ごうとして疲れるより、任せておく方がいい。信仰によって、感覚も平安なものとされるのだと思います。

人の平安は、今安心していても、次の瞬間不安になってしまうもの。神の与えて下さる平安は、変わらないもの、信仰によって感じることのできるものであると思います。そして、主がおられるから、平安が感じられても感じられなくてもよいというところに、平安があると思います。

何も悪いことをしていないつもりなのに、「罪を悔い改めなさい」と言われてびっくりしました。何のことですか。
ピーター:

「悔い改め」というのは、陰気な言葉ですね。これはギリシャ語の「メタノイア」という言葉の訳で、「方向転換」という意味です。今まで自分中心に生きてきたのを、今、方向転換してキリストの方を向く、ということです。

「罪」という言葉も、ギリシャ語の「ハマルティア」は「的外れ」という意味で、神様と調和した生き方なら的が合っているが、自分中心の生活は的外れだよ、というのです。

だから「罪を悔い改めよ」とは、正しくは「神様から離れた不自然な生活をそろそろ終わりにして、ここで大きく方向転換してみないか。神様の愛の世界に戻ってこないか」ということなのです。

このことをクリスチャンでさえ誤解して、何か過去の罪状を一つずつ告白しなければならないかのように思っている。私たちの過去をほじくり出そうものなら、誰も際限なくほじくり作業をしなければならないでしょう。

神様はそんなことにこだわっておられないのです。私たちが一人残らず光の世界に来ることを望んでおられるから、「さあ、君たちの人生、大きく方向転換しなさい」と言われているのです。

聖書に、放蕩息子の話があります。父親の財産を半分もらって家出した男ですが、金を使い尽くし、とことんまで落ちた時、ふと本心に立ち返って父のもとに帰ろうとした、そして帰還した放蕩息子を父はめちゃくちゃに歓迎したという話です。この「本心に立ち返った」ということが、悔い改めなのです。

今までの自分中心の生活に終止符を打ち、父の方に向いた、神の方に向きを変えた。外側のわがままな自分ではなく、彼の本心とも言うべき魂の切なる願いは、神のもとに帰ろうという意志決断に表れています。

神の方を向いた、それだけでもう神のいのちに入れられています。神に受け入れられたというよろこびがあるでしょう。

聖書の中でパリサイ人や律法学者は、どうして悪く言われるのですか。
ピーター:

お芝居にはいつも善玉と悪玉が出てきますね。聖書の舞台では、パリサイ人や律法学者が悪玉を演じます。もっともパリサイ人というのは、ヤクザではないのです。むしろ非常にまじめな宗教家のグループで、当時では最も尊敬されていた人たちでした。

イエスの時代のユダヤ教は、サドカイ派が主流で、これは少々堕落していたので、戒律をまじめに守る連中はサドカイ派から分離して、純粋な自分たち独自の信仰を守りました。「パリサイ」というのは「分離」という意味で、まじめ派だったのです。

しかし、イエスは激しくパリサイ人の偽善を攻撃されました。彼らの偽善とは、自分の欠点には目が行かず、他人の欠点ばかりをあげる根性です。パリサイ人は律法厳守を人々に要求しましたが、自分たちの貪欲には少しも良心の痛みを覚えていない。宗教を奉じている人の中には偽善者が多いですね。

しかし、自分の中にも「パリサイ人」がいないか省みるのは大切なことです。他人の欠点ばかり目に付くが、自分の欠点はどうなのか。自分の影を見ないで人を批判するのは、まさに「パリサイ人」。あなたの中にもたくさんの「パリサイ人」がいるでしょう。

美津子:

確かに私の中にはパリサイ人、律法学者がいます。人を外見で見て判断したり、こうあるべきだという願いに沿わないものは非難したり、カタチを整えて安心したいという私。自分はするべきことはきちんとしているから正しい、きちんとできない人はおかしい。自分の正しさを主張するあまりに人を裁き、自分の正しさを守るために人を非難する。

いつもいのちなる主に目を向け続けないと、すぐに「パリ子」になってしまう。人にはパリサイ人の性質があるのだと思います。

そんな私の肉のために、イエスさまは十字架にかかって下さったのだから、主を信じる信仰に生きる私は、肉に戻って主を悲しませたくないと思います。生きているのは、もはや私ではない、主なのですね。

イエス様のことを「神の小羊」と言うのはどういうことですか。
ピーター:

古代イスラエルの生活で最も大事なものの一つが、羊でした。食用であり、衣となるものですから、彼らにとって羊は、日本人にとっての「お米」の感覚だったのです。牧畜文化の者にとって一番大事な羊ですから、犠牲の捧げものといえば羊しかなかったのです。イエス様もそのバックグランドの中で活躍されたので、「神の小羊」であり「羊飼い」と呼ばれました。羊は彼らにとって一番親しみのある動物でした。

聖書では、人間を羊にたとえています。犬や猫(もっともネコは聖書に登場しませんが)でなく、羊だったというのも、おもしろいですね。犬のように賢く走り回ることもできず、ネコのようにお高くとまっていない動物。どちらかといえば愚鈍で、羊飼いがいなければ敵から身を守ることもできない存在。人間はそんな存在だというのです。

犬や猫みたいな人間、時には豚みたいにいつもぶうぶう不平の鼻を鳴らしている人間もいますが、イエス様に出会うと人は皆、本来の無防備な姿、羊のようになるのです。それでいいではありませんか。それともあなたは、「主はわが豚飼い、われその豚なり」と言った方がいいですか。
 
「ほふられた小羊」というのは、次のような歴史があります。

旧約では「過ぎ越しの小羊」と言われる犠牲の小羊が出てきます。エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、モーセに率いられエジプトを脱出する前の晩、各家は神に命じられたように一匹の小羊をほふり、その血を家の入り口のかもいと柱に塗りました。すると災いがその家を過ぎ越しました。

イエス様が来られた時、バプテスマのヨハネは「見よ、神の小羊」(ヨハネ1:36)と叫びました。イエス様が人々の犠牲の小羊になることを預言したのです。そしてイエス様は十字架で文字通り「神の小羊」となり、私たちの身代わりとなられました。主はほふられた、殺されたのです。

「ほふられた小羊」という表現は黙示録に出てきますが、主は「世の初めからほふられた小羊」(13:8)として存在されていたのです。

「あがなう」とはどういうことですか。
ピーター:

これは普段使われる言葉ではありません。もっとも英語では非常に分かりやすい日常用語であり、新聞広告についている割引券をもってスーパーに行き、その食品を買う時、割引券を出すと、その分だけ割り引いて(買い取って)くれます。これをredeem(リディーム)と言います。

「あがなう(redeem)」というのは、「買い取る」という意味です。昔、奴隷制度があった頃、奴隷が新しい主人に買い取られるイメージです。

人間は自分一人で考え、自分一人の決断で人生を生きてきたと思うでしょうが、実は自分中心の生活というのはサタンの奴隷状態だと聖書は言います。罪の奴隷状態に陥っている。

たとえば、オレは好きなように思う存分酒を飲む、タバコを吸うのは私の自由よ、と言いますが、気がついてみれば酒をやめることができず、喫煙癖から逃れることができずにいる。いつの間にか酒やタバコの奴隷になっているのです。その他いろいろな奴隷状態があります。野心や嫉妬の奴隷、虚栄心や怒りの奴隷、疑いや心配の奴隷…。人は皆、奴隷状態にあるのです。

だからイエス様が来られて、私たちを奴隷から「あがなって」下さったのです。私たちをサタンから買い取り、自由人にして下さったのです。

キリストの復活(よみがえり)とはどういうことですか。体を持ったまま生き返られたのですか。
ピーター:

そうです。体を持ったまま生き返られたのです。

ギリシャ人は、体より精神が上、物より光が高級だと信じていましたから、光なる神が卑しい肉体をとるなどということは絶対にあり得ないと主張していました。しかも、その肉体をとられた神が復活したというのを聞いて、びっくりしたにちがいありません。

もし万が一にもそんなことがあるなら、復活した体というのはガス体であり、肉体ではないはずだと主張しました。復活を受け入れるのは、十字架を信じること以上に難しいようです。

でも、それは知性が難しがっているだけで、キリストの愛を体験した人なら、実に素直に受け入れられる事実です。復活のイエスは体を持っておられたのであり、そんなことは信じられないとゴネていたトマスさんに、「それでは、お前の手をわたしのわきに差し入れてごらん」と言われましたね。

最後に昇天されるまで、復活のイエスは体を持って人々に現れました。そして私たち信じる者も、終わりの日には同じように体を持って復活するだろうと預言されました。

どんなふうになるのでしょうね。この世を去る時も、楽しみですね。

また、復活のイエスは体を持って現れたのですが、もはや生前のままではありませんでした。復活という事件を契機に、イエスは自然界と超自然界(霊界)の両方を自由に出入りされるようになりました。地も天も支配されるようになられたからです。お弟子さんたちに現れて、同時にその場にいない女性たちにも現れたかもしれません。自然界と超自然界の両方を支配されているから可能なのです。

自然界にいる私たちからすれば、ここにイエスがおられるなら、あそこにはいないだろうと想像しますが、自然界と超自然界の両方は、今や主のものとされましたから、全く問題なく全世界の祈り会や礼拝に、同時に主は臨在なさることができるのです。だから心配なく祈って下さいね。

  1. HOME
  2. 主に出会うQ&A
TOP